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幸せを探すお魚

海の中に子供のお魚さんがいた。

お魚は「海って何だろう?どんなものなんだろう?」と考えていた。お魚は海がどんなものなのか知りたくて、ウロウロクルクル探し回った。でも海らしきものは一向に見つからない。するとそこにの方からキラキラしたものが見えた。

あれが「」なのかな?

そう思い、パクっとキラキラしたものを咥えると、グングンと釣り上げられた。海面に出てから生まれて初めて海を見た。喉に針が突き刺さり、息も出来ずに苦しい。それでもそこで初めて海は青くて広くてキレイなものだと知ることが出来た。

という話を聞いた。

ここでいう【海】とは【幸せ】に例えられ、

【上】とは【神様】。

【苦しい】状態は【病気や事故や怪我】と言える。

幸せ(海)の中に居る間は、その幸せに気づけない。当たり前に今生きているけれど、自力でご飯が食べられる事、自力で歩ける事、五体満足で生きている事。好きな音楽が聴ける事。美味しいコーヒーが飲める事。娘が生きている事。両親が生きている事。

2年前は、夏休みになってもPTA改革の話し合いで学校へ行っていた。娘が夏休みだから毎食ご飯を作らなきゃいけないし、調べ物もしたいし、手芸もしたいし。このゴタゴタが終わったら、私も働いて、社宅を出て家を買おう。そうして休みの日には家で読みたい本を読んで、映画も観よう。ライブ映像を観る部屋や映画を観る部屋も欲しいな。手芸をする部屋も欲しいな…などと考えていた。

それでも、今となれば、そのゴタゴタの最中にいると感じた時の事を【幸せ】だったんだと感じる事ができる。旦那が死んでしまうアクシデントが無ければ一生気づく事は無かった。幸せの海に居るのに海はどこかと探し回るお魚のようだっただろう。そんな大きなアクシデントが無ければ幸せに気付けなかった私は馬鹿だな。

馬鹿の語源てね。馬と鹿を間違えるぐらいの見当違いだって事らしい。(それはどうでもいいんだけど)

引越ししてきた何も知らない転校生の親(私)に、面倒くさいからと言ってPTAの役を押し付けておきながら、いざPTAを良い方向へ改革しますよと言うと、それはダメと口を出す親が居て、勝手だな、オイ。と腹を立てていたけれど、考えてみれば「改革に賛成」してくれる人が居たわけだし、親切に接してくれる人が数人でも居たのだし、娘が元気で学校に行ってくれた事にも、旦那が愚痴を聞いてくれたりアドバイスしてくれた事も、感謝だ。

人は多分、誰かの役に立つ事が嬉しくて、そのために生きているんだろう。

情報処理の知識で少しはアンケートの集計に貢献できるかもしれない。アンケート結果で共通の認識が出来れば、PTA活動が嫌になるという事が減るという事に少しは役立てるかもしれないと無意識に思っていたんだろう。自己犠牲とかではなく、自分の得意な事で周囲の人が楽になる、楽しくなるということが

傍(はた)を楽(らく)にする

働(はた)らくという事なのかな…と思った話。

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