0を生きる我であれ
3日間ほど、和歌山でした。
海と山から、何かを感じざるをえません。
ここずっと、破壊衝動がひどく、
私は何がしたいのか、
ずっと求めていました。
求めるものは、我にあり。ここにあり。
そして、ここからずっともっと遠くをみる。
渇いている。
この渇きを満たすために、
高野山の泊まったゲストハウスで知った阿吽という漫画を今日一気に読みました。
空海と最澄。
孤高な存在。ああ、これかと落ちる。
完全に理解されることは、ないのだと。
私は空海寄りだけれども、最澄の気持ちが分かるときもあり。
空は0とも読みます。
ゼロの海。
無から有を生み出す。
永遠の真理の探究♾
このタイミングで、高野山に訪れたこと、特に行きたいとも思っていなかった、むしろ宗教的には違うし…そこまで引き寄せるものって何だろうとか思っていた自分。
寺は陰、神社は陽のイメージがあって、
私は陽よりのことが多いのですよね。
ただ、陽だけでは説明がつかないことが多々あって、その部分に陰をはめこむとパズルのピースがはまったように思う。
そのことを知れたこと、他にも色んな不思議体験ができ、無事に辿り着けたこと、全てに感謝して。
文章をもっと学びたいなあと思うのです。
まだまだ稚拙。もっともっと、貪欲に。
常に失くす、0になる感覚を持って、私を生きたいのです。