家族愛、地元愛、母校愛
初めに断りを入れておくが、これはハートウォーミングなエッセイではない。ただの愚痴である。タイトルにした家族愛と地元愛と母校愛がゼロであるという話をただ書き殴っただけの、5000字弱に及ぶ虚しいひとりごとである。
◆家族愛、地元愛、母校愛
これらを語る人のことを嫌う気持ちは全くない。むしろ羨ましく思う。ただわたしはこれらの感情を持ち合わせていない。これらの感情を持たないことに疑問を呈する権利は誰しもが持っているが、同時にその問いに答えない権利も誰しもが持っているということを忘れないでほしい。
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・家族愛
私は生まれた家庭のことを愛していない。両親と最後に会ったのはもう何年も前のことになる。3人いる姉に至ってはいまどこで暮らしているのかも知らない。彼らから稀に連絡が来ると通知を目にしただけで気分が沈む。誕生日やお正月を心から楽しく迎えることができないのは、母親から連絡が来るとわかっているからかもしれない。
新型コロナウイルス感染拡大前は、帰省しないことを咎めてくる人が一定数いた。親不孝だと言われたこともある。いつまで反抗期をやっているのかと揶揄してくる人もいた。
こうやって言ってくる人のことが、私は嫌いだ。家族とは仲が良くあるべきだとか、両親とは尊敬の対象であるべきだとか、そういった価値観を押し付けてこないでほしい。そして、家族との不和をまるで私個人の責任であるかのように判断しないでほしい。もし私が親から虐待を受けていた過去があって思い出すだけでフラッシュバックする、といった事情を抱えていたとしたら一体どうするつもりなのだろう。
私は母親から面と向かって「嫌いだ」と言われたことがある。私宛の郵便を勝手に捨てられていたと知った時は人としての常識のなさに辟易とした。大学時代に一人暮らしを始めて自由を手に入れたと思ったのも束の間、まだ金銭的に親へ依存する形になっていたのが痛かった。家庭内でのパワーバランスは「アルバイト一切禁止」という私の意思が介在することなく定められたルールによって親に偏っていたのだ。社会人になって自分で稼げるようになってからが、家族の呪縛からの真の解放だった。
姉たちに関しては、ただただ価値観が合わない。いや、価値観が合わないだけなら良いのだが、自分の価値観を押し付けてこようとするから厄介なのだ。大学3年生で就職活動中、人生の先輩である姉に相談をしようとしたら、待ち合わせで顔を合わせるなり化粧の仕方や髪の長さをひたすらダメ出しされ、精神的にかなり消耗した。ピンクのアイシャドウはダメだとか、結局髪を結うのならスーパーロングヘアなんて切ってしまえとか、そんな話だった。ブラウンのアイシャドウで派手に見えてしまうのも、ロングヘア以外が似合わないのも、自分で理解しているからこその選択だったのに、そういった意図を説明しようとしても姉は耳を貸さなかった。他にも「あなたのためを思って」という親切そうな言葉の皮を被った、無責任で大衆的なアドバイスしか得られなかった。私のことを知った気でいる身近な人間よりも、たとえ初対面でも私自身の考えを知ろうとして私自身に合う解決策を一緒に考えてくれる人の方がよっぽど有益なアドバイスをくれる、という教訓を得た。
ここまでに述べた通り、私の生まれた家庭と私とは、お互いに反りが合わない。人間自体が変わることは難しいので、適切な距離感を調整するしかない。別に早く死んでくれと願うことはしないので、ただ私の人生に介入してこないでほしい。それだけの話である。
家族旅行を楽しみに思ったり家族の長生きを願ったり、そんなことをしたいと思えるような人のいる家に生まれたかった。彼らが相手ではこんな思いは一生湧いてこないだろう。
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・地元愛
私は生まれた地のことを愛していない。最後にあの駅に降り立ったのはもう何年も前のことになる。
自己紹介の定番テーマとして地元トークが君臨している現状を、私は理解できない。なぜ当然のように出身地を良く思っている前提で話を進めるのだろう。出身地がさほど好きでないと言ったら間髪を入れず理由を尋ねてくる人もいる。私がもし幼少期に壮絶ないじめを受けていていまもその地にいるいじめの加害者たちを目にするのが苦痛だとか、そういった過去と現在に生きているのだとしたら一体どうするつもりなのだろう。見せかけの同情でもくれるのだろうか。
私が出身地を好きでないのは、単に街としての魅力を感じないからである。駅前のショッピングセンターには閑古鳥が鳴いているし、商店街の高齢化は著しい。実家は2軒あるが代々住んでいる家ではなくどちらも埋立地に建っているため大規模な地震が来たときには液状化のリスクがあり、資産価値としてはそれほど無い。
お察しの通り、これは国内の多くの街に言えることである。客観的な基準は敢えて設けないが、私に言わせれば23区内でもかなりの割合の街がこれに該当する。街全体の活気の一階微分が負である状態に胸が苦しくなってしまう。高層ビルの林立する大都市と、異国情緒あふれる観光地くらいしか好きになれない。つまり、私が出身地の好きでない点について説明するとき、それは多くの場合聞き手・読み手の出身地を貶すことに繋がる危険性を孕んでいる。誰かが大事にしているものを貶すというのは私の信条に反するので、必然的に黙る・はぐらかすという選択肢を取ることになる。
そもそも私は人口減少社会自体が合わないのだと思う。将来的に海外への移住を視野に入れている背景には、衰退を肌で感じたくないからというのが大きい。
地元トークに巻き込まれたくなくて、イギリス生まれという設定で行こうかと検討したことがある。1歳からロンドン郊外にいたのは事実なので誤差の範囲内かな、と。しかしながら実際の生まれは日本なので嘘をつくことになり私自身が辛くなると思い、やめた。いっそのこと本当にイギリスで産んでくれていたらよかったのに、と何の意味もない願望を抱くことは今でもある。
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・母校愛
誤解されがちだが、私には母校愛はそれほど無い。小中高に関しては卒業後に先生と会いたくなったり部活動に呼ばれたりして何度か訪れたことがあるが、大学卒業後にキャンパスに立ち寄ったことはない。
いや、正確にいうと早稲田という大学自体はそれなりに好きである。学校経営自体が上手いので安心して見ていられるし、一度だけ連れて行ってもらった学会では研究のレベルの高さも実感した。学生には全力でふざけることの楽しさを知っている賢い人がたくさんいて面白い。一生の付き合いをしていきたいと思っている大切な友人の中には、早稲田へ進学しなかったら出会えなかったであろう人もいる。私は滑り止めで受験し見事に第一志望の大学へ落ちて流れてきたクチだが、正直なところなぜ第一志望が早稲田でなかったのかわからない。
ただ、母校愛があるかと言われるとそうではない。特に在学中においては慶應へ行っておけばよかったと幾度となく後悔した。4年間を通して早稲田に染まってしまった身で言うのもおかしいかもしれないが、元々の価値観や性格は慶應の方が合っていたと思う。率直に言うと、アルバイトをしていないことがコンプレックスだった私にとって、庶民的な早稲田では居心地の悪さが拭えなかった。
何より、人生で1番の失敗だった学部選択の影響が大きい。浪人時の私に与えられた私大受験先の選択肢は、早稲田理工と慶應経済の二つだった(後がない浪人時ですらこうやって受験校を絞ってくるあたりに親の思想の偏りが出ている)。得意科目からしても興味の対象からしても慶應経済の方が圧倒的に合っていたはずなのだが、建築士になるという中学時代からの夢を中途半端に諦めきれていなかった私は理工系への進学に拘り、建築学科でもない理工を愚かにも選択してしまった。実際に入った学科では、興味も適性も全くない専門科目を友人たちによる過去問ネットワークと持ち前の要領の良さだけでなんとか乗り切った。試験やレポートはまだ資格試験の勉強などに生かせるかもしれないので良いとして、辛かったのは学科の友人たちとの付き合いである。休み時間に授業の内容について話をされるのが苦痛で仕方なく、興味の対象が交わらない人とのコミュニケーションの難しさを知った。
就職がヌルゲーとされる私の出身学科において、なんとか他分野へ進もうと必死に就活をする私は滑稽に映っていたのだろう。「専攻と違う分野へ進みたいなら、なんでそもそもこの学科に来たの?」と悪意なく聞かれたことがある。コンプレックスを刺激されるのが好きでないため、それ以来私は専攻を愛し一生その道のプロとして生きる人たちを意識的に遠ざけるようになってしまった。いまでも仲良くしている学科の友人たちは、私と同じく脱出した人か、そういった選択を尊重してくれる人のみである。同窓会なんて、間違っっても行かない。
高校生の時点で、あるいは浪人生の時点で、自己分析をしっかりとできていれば、私の大学生活は大きく変わっていただろう。
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◆読者へのお願いと、自分へのお願い
ここまで愚痴に目を通してくれた方へお願いしたいことがある。そして愚痴をわざわざ文字に起こした自分自身に対しても言いたいことがある。
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・お願いだから
家族愛、地元愛、母校愛がないことはコンプレックスであるわけだが、同じように何かを愛せない人の気持ちが心底わかるという点では良かったのかもしれない。家族愛、地元愛、母校愛にあふれる人へ私からひとつお願いしたいことがある。
それは、家族や出身地や出身校の話題を振った相手がもし表情を曇らせたら、そっとしておいてほしいということだ。理由が気になるなら聞いても良いが、何かを嫌いになる理由なんて話して楽しいものではないことぐらいは想像がつくはずだ。「なんで好きじゃないの?」といきなり質問すると相手を追い詰めることになる可能性がある。まずは「なんで好きじゃないのか、聞いてもいい?」とお伺いを立てるところから始めるのが礼儀というものではないだろうか。そして、答えたくないと言われたら大人しく引き下がること。
人は、誰かの好奇心を満たすおもちゃとなるために存在しているのではない。
最近やっと、恋愛の話がセクシャリティの秘匿性を暴く恐れがあるということを人々が理解し始めた。他の話題にも応用する風潮が広まってくれればと切に願う。
世界にはいろんな人がいる。身内に犯罪者がいる人だっているし、被曝n世の人もいるし、親の教育方針により女子大にしか進学が許されなかった人だっている。自分の意思ではどうにもならない運命に苦しんでいる人の存在は、物語の中ではなく現実世界にある。このことを肝に銘じておきたい。
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・ありのままを愛する
ここまで偉そうなトーンで述べてきたが、結局私は、現在の自分のルーツや自分の過去を肯定することがとにかく苦手なのだ。自己評価は高く自己愛も強いため自分で自分のことを素晴らしいと本気で思っているが、自己肯定感が強いかと言われるとそれはNoだ。不完全な自分を受け入れるには「欠点が少しくらいあったほうが人は魅力的に見えるから」と頭で補わないと、自己嫌悪モードに入ってしまう。ありのままの自分を受け入れるなんて苦痛でしかない。常に完璧を目指したくなる。
もういまさら自己肯定感を高めようなんて思わないから、自己肯定が高くなくても満足度の高い人生を歩もう、という方向性に舵を切ったのが4年ほど前。現在についての解釈や未来への進み方に関してはだいぶ選択が上手くなったものの、いまだに過去に囚われて生きているというのが虚しい。可変性を持たない物事に満足できない時は考え方を変えるしかない、というシンプルなロジックなのに。自分自身による呪縛から、早く自由になりたい。
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