見出し画像

死に際でモデルになる

今年の4月、5年ぶりに精神科へ入院することとなった。
入院するまでの私はというと、高校を卒業し、しばらくのニート生活を経て、バイトを始めたが辞めて、しばらくが経った頃だった。

今回の入院はバイトが原因だった、と言っても過言ではない。
私は美術館で監視員をしていたのだが、ある程度の月日が経つと案内を任されるようになった。
毎日、1万人弱が来場する美術館で

「チケットをお持ちの方はこちらからご入場頂けます。」

と大きな声で言う仕事。
なんてことないように思えるのだが、私は人前で話せない。
人前に立つと顔が真っ赤になり、言葉を話すなんてもってのほか。
学生時代、クラスメイトの前でスピーチが出来ずに心療内科通いを始めた私にとっては心臓が飛び出そうな程の緊張に襲われていた。
(心療内科では社会不安障害という診断を受けた。)

そして、案の定顔は真っ赤になり、やっと言えた言葉もカミカミで同僚とお客様の視線が怖くて仕方がなかった。
そんな中でも仕事は仕事なので、カミカミながらも声を張り続けた。

休憩の時間となり、休憩室へ入ろうと扉を少し開けると

「ち、ち、チケットをお、おお持ちのおぉ客様はこ、こ、こちらからごぬぅ場頂けます。」

そこでは私がカミカミで声を張り上げる姿を真似しながら笑う同僚達の姿があった。

私の真似をしながら笑う同僚の姿を見て私は過呼吸になり立っていられなくなった。
そんな私を見かねた上司が車椅子を出してくれ、そのまま退勤となった。

そして2度と出勤することは無かった。

再びニート生活に戻り、実家で親の脛を齧り続けた。
親は社会不安障害の私が人前で案内する業務にあたったことをすごく褒めてくれた。
そんな両親を前に私はからかわれたことを言えなかった。

たくさんの同級生達が大学に進学する中、フリーターであることを選び、将来が不安で仕方が無かった。
ただでさえうつ病で人前で話せない、さらには低知能といった爆弾のような物を抱える中、高卒では仕事の幅はグッと狭まる。
そんな中、1年も経たずにバイトを辞めた。
このことは私の将来への大きな不安材料となった。

溜まりに溜まり続けた不安と緊張、そして自分に対する羞恥心から薬を大量に服用して現実逃避をし続けた。

バイトで貯めたお金はすべてお薬代へ消えた。

現在、ドラッグストアでお薬をいくつも買うことはできない。
だから時間をずらして同じ店員さんと会わないようにしたり、遠くのドラッグストアへ行ったりとかなりの工夫が必要だった。
変装も試したが私の白い肌ではすぐバレてしまった。

お薬を大量に服用し続けると体はボロボロになる。
吐き気と頭痛が治らない。
テンションだけがハイになり、自分でも何を言っているのか分からない。
意を決して、通院している心療内科の先生に相談すると入院を勧められた。
「やっぱりか」
と思いながら2度目の精神科入院となった。

入院先の病院で、私は一風変わった医師を主治医にもつこととなる。

その医師は背が高く、色黒で髪をお団子にした、ワイルドな先生だった。
サーフィンでオリンピックに出ました、と言われても驚かない自信があったので私は頭の中でサーフィン先生と呼ばせて頂いていた。

サーフィン先生は私の話すことを遮ることも否定も一切しなかった。
私がどんな事を話しても、まずは
「話してくれてありがとうございます」
と言ってくれた。

そんなサーフィン先生の下で私は2ヶ月間の入院生活を送った。
入院中、もちろん薬の大量摂取はできない。
そのため、何度も発作が起きて涙が止まらなくなった。
その度にサーフィン先生と看護師さん達のお世話になった。
この世で1番不幸なのは私だ、と信じて疑わなかった。

入院生活も1ヶ月を過ぎた頃、作業療法を勧められた。
作業療法とは作業活動を通じて心身機能の維持・改善をサポートする治療のことである。
精神科の作業は編み物に、刺繍、パズルなどといったものが主だった。
その作業療法で私はシルバーヘアの素敵なご婦人と顔を合わせるようになる。
ご婦人は私の隣の病室の方だった。
そのことに病室から全くと言っていいほど出ていなかった私は気づいていなかった。
ご婦人はすごく上品な方で、私のことを
「いつも背筋が伸びててスラーッとして素敵ね」
と褒めてくれた。

何度も作業療法で顔を合わせるうちにこの方はどうして入院しているんだろう?という疑問を持つようになった。
ご婦人も背筋がピンと伸びて編み物がお上手な方だった。
看護師さんと談笑する姿もよく見かけた。
私のように発作が起きている訳でもない。
どうしてだろう、と思っているうちにご婦人は退院していた。
私の後に入院し、私より先に退院していったご婦人。
私の中でご婦人は症状が軽かったのだろう、と勝手に納得していた。

私の入院生活も終盤に差し掛かった頃、看護師さん達の話声が聞こえてきた。

○○さん、退院後にお亡くなりになられたんだって。首を吊っていたらしいよ。」

ご婦人が亡くなった。

私よりも病状がずっと軽そうだったご婦人。
私が一番不幸なんだ、と思い込んでいた私にとって寝耳に水だった。
その時の私には、ご婦人も何か抱え込んでいたのかもしれない、といった発想は無かった。

私よりも症状が軽い方が退院後、自殺したのだから私も退院後に死ぬのだろう。
これから生きていけない、自殺しなければならない、という義務感すらあった。

そして退院後、帰宅するとすぐに薬を大量に飲んでハイになった状態で身辺整理を始めた。
首を吊るつもりだった。
最後まで両親に迷惑をかける訳にはいかないと隅々まで片付けた。
身辺整理も終盤、何年も開けていないクローゼットを開けると小学校1年生の頃に書いたであろう「私の夢」という題の文章が出てきた。
そこには

「私の夢はモデルになることです。」

と汚い字で書かれていた。
私が小学校1年生の頃と言えばAKB48が全盛期を迎えており、同級生の女の子たちはみんなアイドルになりたい、と言っていた。
そんな時代に私はモデルになりたいと書いていた。
小学校1年生の無邪気な脳ではモデルには身長、スタイル、表現力が必要なことを一切考えていない。
現在の私が全てを兼ね備えていないと知ればどう思うのだろう。

どうせ今から死ぬ。
どうでもいい、捨てよう、とその紙はゴミ箱にポイしたが何を思ったか、眠気とハイになったテンションによって、私は適当なモデル事務所に自分の写真を送っていた。

朝、目が覚めると薬の効果も消えテンションも通常に戻っていた。
寝ぼけ眼でスマホを開くとメールが届いていた。
開くと

オーディションのお知らせ

と書かれていた。
一気に目が覚め、訳の分からない状態で布団の上で絶句した。
が、性格上「やっぱり、なしで!」とも言えず
2日後オーディションへ向かった。

その時の私は薬を大量摂取しないと電車にも乗れない状態だったので、またもやハイになった状態でオーディションに向かった。
オーディションでは何を話したか全く覚えていない。
フラフラと自宅へ帰り翌朝(昼)、目を覚ましてスマホを開くと

合格のお知らせ

と書かれたメールが入っていた。

!!?

自分でも訳の分からないまま両親に話すと、両親は共に応援してくれた。

そして私は人前に立って注目を集めることが大の苦手なのに、モデル事務所に所属することとなってしまった。

事務所に所属し、レッスンを受け始めてから薬の大量摂取はピタリと止んだ。
自分でもなぜだか分からない。
サーフィン先生が退院前に言ってくれた

「自分の好きなことを続けてほしい。」

この言葉が脳裏によみがえる。

ご婦人は作業療法で、お孫さんのためにポーチを作っていた。
お孫さんのことを話しながらポーチの刺繍をするご婦人はとても生き生きしていた。
好きなことをすることは生きる活力になるのかもしれない。
そういう意味での自分の好きなことを続けてほしいという意味だったのかな、と思う。

退院後は通院する病院に戻ったため、サーフィン先生にモデル事務所に所属したことは言わずじまいとなった。

学生時代、クラスメイトの前でスピーチが出来ず涙を流し、音楽のテストで手が震えてリコーダーを落とした。

学生時代、そしてバイトで負った心の傷は癒えない。

私はモデルにとって重要な身長が低い。
今も人前に立つと震えるし、話せない。
将来が不安でありながらモデルという不安定な道を選んだ。
モデルという職業は私にとって生きる活力にはなるかもしれないけれど、ご婦人と同じ道を辿ることもあるかもしれない。
でもいつか、人前に立つこと、注目されることが苦手な人達に勇気を与えられるようなモデルになりたいと思う。

まさか生きているなんて、そしてこんなことを思うようになるなんて、私は全く想像していなかった。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集