プロフェッショナル

「どうしたらプロになれるんですか」あるいは、「プロになるにはどうしたらいいんでしょうか」
よく聞かれるこの二つの質問は同じ様でいて実は微妙に違う。 前者への答えは「練習すること」であり、後者へのそれは「名刺を作ること」である。いや、その逆である。ともかくここで言いたいのはそのことではない。

それは高田馬場にある「宇宙一小さなライブハウス」と言われる店。
十人も入れば満員になるにもかかわらず、その夜も客の入りはいまひとつだった。そして小さな店にありがちなことだが、 なかなか定刻に演奏は始まらない。
「山崎まさよしは一人で武道館をいっぱいにするというのに...」
僕はそんなことをぼんやり考えながら、ママと客の会話を聞くともなしに聞いていた。 どうやらその客は熱心なジャズファンというわけではなく、 以前この店がライブ営業を始める前に何度か来たことがある程度らしい。久しぶりに顔を出してみたのだろう。そして何となく落ち着かない様子で誰かを待っているようであった。まるでいつになったら演奏が始るのかというふうに。

「じゃあ、そろそろはじめる？」

ママがそう言って、僕が楽器に手をかけた瞬間、その客はまるですべての謎が解けたかのような表情をし、同時に僕もすべてを理解した。つまり、彼は今夜の演奏者がやって来るのを待っていたのだ。

ジャズクラブを訪れる人々... それが「クラブ」と呼ばれるべきかはさておき... には二種類の人間がいる。僕のことを知っている、あるいは聴きに来た人間と、そうでない者。この「僕を知っている人間」と「僕を聴きに来た人間」という二つもまた同じ様でいて実は微妙に違う。前者は...いや、やめておこう。ともかくここで言いたいのは、客がそのどちらでもなかったということだ。

彼はいろいろな思いを巡らせていたのかも知れない。
「はたして、この店のどこで演奏するのだろうか？」そして「誰が？」
まさかテーブルの向こうでボーッとしている奴がこれから演奏を始めるとは思いもよらなかったのだろう。しかしこんなことはジャズという世界ではよくあることだ。 そして結局のところ、客の入りがどうであろうと、またその客がどういう人間であろうと、僕にできることは一つだけだった。そう、マウスピースをくわえ、息を吹き込むこと、それだけだ。 何を演ったのかはもう憶えていない。ただ、その夜の演奏に「ワルくはなかったな」という感触をもったのは憶えている。

「素晴らしかったです。」
その客が話しかけてきた。
「始まる前から気にはなっていたんですが、まさかあなたがこんな凄いプレーヤーだなんて！」
そして彼は自分もこんなふうにジャズが、できればサックスが吹ければどんなにいいだろう、というようなことを興奮ぎみに語った。僕は多分、これはこれでなかなか大変なんだ、ぐらいのことを答えたかも知れない。
こんな時、いや、いつでも、僕は褒められるのが苦手だ。が、同時にそれは音楽をやっていてよかったと思う瞬間でもある。

そしてそれは、文字通り瞬間であった。

「イヤー、素晴らしい、ホントに羨ましい。で、お仕事は何をなさってるんですか?」

……………………………………………

つまり、そういうことだ。 別に驚くことじゃない。ジャズを演奏して生活をしている、考えてみればこれはこれで不思議なものだ。
「ラッパで飯が食えるか！」「ラッパじゃねーよ！」というテレビコマーシャルがあったが、一般の認識と言えばそんなものなのかもしれない。 しかしハッキリと言っておこう。サックスは断固ラッパではない。いや、今ここで言いたいのはそういうことではない。
ジャズミュージシャンというものは職業として世間に認知されているのうか？ もちろんである。それは世間というより政府に、もう一歩踏み込んで厚生労働省によって認定されているのだ。

ばかげて聞こえるかもしれない。しかしこれは紛れもない事実である。疑う者は「ハローワーク」に行ってみればいい。そこには「しごとライブラリー」と題された、種々多様な職業を紹介したビデオが設置されており、「ジャズミュージシャン」はその中の一タイトルとして観ることができる。そのビデオでは冒頭の「プロになるには」云々が丁寧に図解されており、もちろんそこには「練習」も「名刺」も出てこない。 それどころかそこに出てくる人物に我々業界の多くの人はかなりの衝撃を受けることに...いや、やめておこう。
ともかく、僕はこれ以上ないというくらい控えめな言い方でこれが僕の仕事であるということをその客に告げた。

「イヤー、そうですよね。これは失礼いたしました。何たってプロですもんね。いや、流石だ。」
彼は自分の非礼を恥じ入るよう詫びた。俺はホッとした気持ちにはなったものの、やはりある種の居心地の悪さをその場に感じずにはいられなかった。いや、解ってくれればいいのだ。解ってくれれば。だが一体何を?

彼はさらに続けた。

「で、昼間は何を？」