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「責められている気がする」への抗体は小説でつくった

書籍やWEB記事、あるいはSNSなどで発信されるある種の情報を目にしたときに、「責められている気がする」と感じる人は多いようだ。

たとえば、自分の努力やその結果の成功について語る人がいる。それを見て、「お前はちゃんと頑張っているのか?」「お前がその程度の現状なのは、私のように努力していないからだ」と言われたような気持ちになり、悲しくなったりイライラしたりする。その結果、その書き手に対して「この人は傲慢だ」「自分より境遇的に恵まれていない人への思いやりがない」なんてコメントが飛び出したりする。

たしかに、「いやそれはいくらなんでも押し付けがましい自慢ではないですか」と言いたくなるタイプの話もあるっちゃある。ただ、「今日も頑張って仕事した」みたいな話に「私は頑張っていないって言うんですか!?」みたいな反応があったりするのを見ると苦しい。

私はAmazonで書籍を買っているときに、ついいろんな本のレビューを見てしまうたちなのだが、この手の感想を見ることはまったく珍しくない。石の裏のダンゴムシ、早朝の駅前に転がる空き缶やペットボトルくらいの勢いで遭遇する。

昔は、この手の反応に対して「なんでこんなこと書くんだろう」と訝しんでいた。でも大人になってからは、どちらかというと「なんで自分は感想としてそう書かないんだろう」の方を考えるようになってきた。

ちなみに勘違いしないでほしいが、私に嫉妬や被害者意識のような醜い感情がないわけではもちろんない。メルカリで売りたいほどある。ただ、それはそれとして、「責められている」とは思わないというだけだ。
 

で、考えたんだけれども、私がそういう感想に至らないのはやはり小説のせいかもしれない。

「小説を通じて多様な価値観を学んだのです」みたいなことではない。もちろん多様な価値観も学んだと思うのだが、どちらかというと「人間って、本当にそれぞれが勝手に妄想し、勝手に他者を裁き、勝手に完結するしかないものなんだな!」ということの方を私は小説から学んだ気がする。

たとえば『赤毛のアン』第一巻のアンはまさに妄想の塊で、勝手にいろんなことを思い込んでは突っ走っているが、読者がその妄想を真に受けるようには書かれていない。基本的にはマリラ的な視点に立って、アンに呆れたり驚いたりするように書かれている。でもマリラもまた、年季の入った思い込みから決して自由ではない。

あるいは、ジェーン・オースティンの小説などはまさにこの、「各自妄想・完結」を示しては去っていく人間たちのドラマだ。最後にヒロインたちは、何かしらの巡り合わせによってそこから多少解放されるが、それも「いかに人がそれぞれ勝手な内面を生きているか」を際立たせる面がある。オースティン小説においては、壮大な勘違いの中で生き続ける人間こそが”平凡”として描かれる(リアルだ)。

こういうものを日常的に読んでいれば、「なら、私もまたその一人なんだろうな」と思うしかない。主観というのはそもそもバグッているのだ。

ということは結局、人の努力や成功によって「責められている」と感じるのも、やっぱりまずは自分の内面の問題なのである。
 

私は自分の内面を生きているし、物語の人物や、あるいはある文章の書き手もそれぞれの内面を生きている。その「他者が己の内面を生きている様子」から責められていると感じるのであれば、私の内面には、ある種の刺激を「責め」に変換するシステムがあるのだろう、と考える。 

「責められている」のではない。「責められていると感じてしまう私がいる」のだ。「ダイアナの友情を失ったと思っているアンがいる」ように。

これはつまり、自分の感情のことも、小説の登場人物の感情の流れのように見ている、ということなのかもしれない。

同じように、私はSNS上の発言も、小説の中に登場する人物たちの言葉と同じように見ているのだと思う。様々な感情を抱え、他者と誤解し合いながらそれぞれの道を歩んでいる人間たちの、平凡な会話劇の一部として。

当然、それにイライラしたりショックを受けたりすることはあるけれども(しょっちゅうある)、責められている、攻撃されている、と思わないだけでだいぶお気楽でいられるというものだ。
 
 

SNSや何かで、他人の活躍やある種の正論を見て責められていると感じてしまう人は、抗体を増やすために小説を読むといいと思う。

私も最近、育児にかまけすぎて抗体が減ってきた気がするので読み直し中である。


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小池未樹
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