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なぜ「海外」だったのか。

「就活」に失敗した。いっそのこと「海外」に行こうと思った。

私は1995年の春、文化服装学院アパレルデザイン科を卒業した。

卒業したといっても苦学生だった私は、実家の宇都宮から毎日、新宿まで通い、さらにバイトに明け暮れる日々だったので、ハッキリ言ってほどんど学校に通っていない。

それでも何とか卒業出来たのは、私がアルバイトで疲れ果てて学校を休んでいた時に電話で励ましてくれたクラスメート達、大幅に遅れて提出した課題を渋々受け取ってくれた先生方、また仕事が終わってから夜な夜な遊びに行った先で、私の将来の夢をずっと聞いてくれたバイト仲間達、そして私を優しく支えてくれた当時の彼氏のお陰だと思う。

あまりの辛さに退学したい時も山ほどあった。でも、ギリギリでも卒業して就職してしまえばあとは何とかなるような気がずっとしていた。

しかし、就職活動はぜんぜん上手くいかなかった。

受けた試験はことごとく全部落ちた。

それでも、大手メーカーの企業デザイナーっていうのは嫌だったし、若かったから、自分の好きではないブランドに就職するくらいなら、ファッション関連の別の分野、例えば生地屋、出版社、教育関係の仕事に就きたかった。で、そこで数年、修行を積んでから改めて好きなブランドでデザイナーとして働きたかった。

そんな時に、仙台の服飾専門学校で新卒の教員を採用するということで面接に行ったら採用された。

幼い時から、デザイナーのほかに学校の先生という職業にずっと憧れていたので、「これは運命。仙台で5年頑張って、そしたらデザイナーの採用試験を受け直そう。」と決心し、家族も知り合いもいない仙台で一人暮らしをはじめた。


恩師の「気になる」一言

文化の学生時代、美大卒で造形学を教えてくださった面白い先生が (その先生は今でもお世話になっているのだが)、「どうせだったらニューヨークとかパリに行っちゃえばいいじゃん。」と私に言って、そのひとことが、卒業してもずっと引っかかっていた。


小さい頃から海外は「あこがれ」だった、夢見る文学少女。

私は、物心ついたころから、欧米文化に非常に興味があり、「高橋真琴」のヨーロピアンなイラストレーション、「バービー人形」、小説ではオルコットの『若草物語』、バーネットの『秘密の花園』や『小公女』、ジョルジュ・サンドの『愛の妖精』、またアニメでは『ラ・セーヌの星』や『女王陛下のプティアンジェ』、『キャンディ♥キャンディ』などに胸をときめかせた。

池田理代子の『ベルサイユのばら』にいたっては、気が狂ったようにコミックや、親にダダをこねて買ってもらった『ベルサイユのばら大百科』の内容を丸暗記するほど何度も読み、アニメ版も毎回欠かさず観てあの独特な世界にどっぷりと浸った。(タカラヅカに関しては、私はその頃まだ幼児だったので、残念ながら見逃した… 涙)


どうせ海外に行くんだったら「旅行」より「生活」したい。

この傾向は中学生になっても変わらず、海外の人々との交流にも興味があったので、アメリカやヨーロッパに数人、ペンパル (ペンフレンド) を持って英語で文通した。旅行先で外国人を見かけると果敢にも、英語で話しかけた。

高校に入ると、ちょうどバブル経済の真っ最中で、たくさんの同級生たちが海外留学や海外旅行に行っているのを横目に「どうせ海外に行くんだったら旅行なんかより、実際に住んでみたい。」と当時思っていた。

まあ、半分は羨ましかったせいで、このような考えに至ったのだと思うが、本当に海外で生活してみたい、英語を上手に話せるようになって海外の文化を知りたいという好奇心も、当時から強かった。


5年後はまだ「29歳」だし…

仙台に就職して、最初の頃は「5年経ったら東京に戻って、デザイナーの採用試験を受け直そう。」と思っていたが、それから間もなく「もし可能なら、いっそのこと、海外ブランドでデザイナーとしての経験を積んでみよう。」という気持ちに傾いていったのだ。



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大森美希 / パリ在住ファッションデザイナー
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