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#6 引き算

どうもこんにちは。

先日、大学の体育各部の表彰式に参加させていただきました。何者でもない僕が壇上に上がることはなく、ただの傍観者として端っこで突っ立っていたわけですが、表彰される同世代の人たちを見ていろんなことを想像していました。どんな練習を重ねてきたのか、どんな思いで、どんな姿勢で取り組んでいたのか、どんな勝負を繰り広げたのか、勝った後はどんな様子だったのか、などなど。でも同時に、実際はそんな想像をはるかに超える道のりがあったんだろうなとも思いました。

人それぞれスポーツで得る物は様々かもしれませんが、それは負けるよりも勝つことで最大化すると思います。無我夢中に勝利を目指すことがスポーツの本質であり、ゆるぎない前提ではないでしょうか。僕自身も結果が欲しかった。その結果の先にある感情や見える景色を体験したかった。

ただ結果がすべてなのか、自分の中で答えは出ていません。そもそも結果と過程は比べられるものなのかとも最近思います。負けてしまった自分を正当化するつもりは全くなく、むしろこれらを語れる土台にすら上がれていないのかもしれませんが、自分たちが向き合ってきた4年間にどんな意味があったのか考えていました。今回書くか悩みましたが、それらを素直に書いてみようと思います。

結果と過程は比べられないと思った理由は、それぞれ性質が違うと感じたからです。結果は生涯の記憶、そしてあらゆる感情として刻まれますが、過程は地味ではあるけど人格や在り方として残るものではないかと思います。

プロ選手になるわけでもない僕らはなぜ部活動に必死だったのか。なぜあんなにも遅刻に対して厳しく、グランド外の行動にも首を突っ込んでいたのか。もちろんそれはみんなで決めた、達成したい目標があり、それに必要なプロセスだと考えたからですが、それだけではなかったと思います。

自分ー競技=??

こんな一文を何かの本か記事で読んで以来ずっと頭にあります。一見単純に見えるこの引き算に、大事なヒントが隠れていそうだと感じました。

部活を引退し、卒業して社会人になる僕らに何が残るのか。それは結果や身に付けたラクロスの技術だけではないはずです。試行錯誤し、いろんな葛藤もあり、誰の目に触れることがなくとも、地道に積み重ねてきた日々があり、それを共に過ごした仲間がいます。真摯に、誠実に、丁寧に、真面目に継続する大切さを、本物の気付きを、スポーツを通して身をもって体験しました。これらは本には載っていないし、Google先生や流行りのChatGPT先生も教えてはくれません。

結果がすべてだと思い知る日だってたくさんありました。どんなに過程をかっこよく語っても、それは勝利という結果を得て初めて証明されるものなのかもしれません。でも、勝った者にしかスポーツをやってきた意味や価値が与えられないという程、スポーツは残酷ではないと思います。必ず誰しも「自分ー競技=」という引き算に0ではない解があると思っています。

冒頭で触れた表彰式の式辞で、ある方がこんなお話をしていました。結果がすべてであり、そうではないと語れるのは勝利した者だけだと。正論です。僕がこれに反論できるわけもなく、聞いていて胸が痛かったです。今回のnoteはそれに対する抗いでも何でもありません。スポーツに約20年間関わってきた一個人の率直な意見です。ただそれだけです。みなさんの意見も是非聞かせてください。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます。今後、なかなかスポーツに対してこんなに深く考えることはないかもしれないので残してみました。最後言うとしたら、僕の引き算には大きな後悔と重い十字架も残っていたということです。やっぱり勝つ方が絶対にいい。後輩たち、がんばれ。

引き続きよろしくお願いします。


ミキ

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