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パンデミックで「災害ユートピア」は生じたのか

レベッカ・ソルニットの「災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(原題:A Paradise Build in Hell: The extraordinary commuities that arise in disaster)(亜紀書房)を読んだ。

彼女は、災害が起きた時、「人々の間にあった格差や分裂は消え去り、個々の直面している運命がどんなに厳しいものであっても、みんなで分かち合うことではるかに楽になり、かつて不可能だと考えられていたことが、その良し悪しに関係なく、可能になるか、すでに実現していて、危機が迫っているせいでそれまでの不満や悩みが吹っ飛んでしまっていて、人々には自分には価値があり、目的があり、世界の中心だと感じられるーそんな社会」(p.32)
が生じると述べており、この状態を「災害ユートピア」と呼んでいる。
災害時は政府など、普段機能しているしくみが役に立たなくなる。その場にいる自分たちで、救助をしたり、避難所を開設したり…としくみを創り上げていく。それはその場しのぎかもしれないが、その場所で最も必要とされていることでもある。その「必要」に向かって、普段は対立している人どうしであっても、みんなで協力する。

東日本大震災が起こった時、「絆」という言葉がもてはやされ、また多くの人が被災地へと向かった。直接被災地へ駆けつけられなかったとしても、自分にできることはないか、とできることを探して行動した。少し厳しく聞こえるかもしれないが、ソルニットは、災害時に他人を助けることは生きる目的を与えてくれ、ある意味、人を助けることを自分のためにしている、と言う。一方で、災害時だけでなく、日常でもこの状態が続いたならば、それはまさにパラダイスである、とも述べる。

残念ながら、災害ユートピアと呼ばれる状態は長くは続かず、一時的なものに過ぎない。しかし、これまでの体制や日常が機能しなくなった時、普段私たちが生きている社会は本当にこのままでいいのか、と私たちに問うてくる。

新型コロナウイルスのパンデミックにおいては、ソルニットが災害ユートピアと呼ぶような状態は生じたのであろうか。

ステイホームと言われ、毎日出勤することが本当に必要なのかと問われ、都市に人口も機能も集中していることの是非が問われた。また、エッセンシャルワーカーという言葉とともに、普段、目に見えないところで私たちの生活を支えている人びとが注目された。エッセンシャルワーカーがいないと私たちの生活は成り立たないにも関わらず、彼らの賃金は決して高くなく、そんな人びとを見えなくするシステムの中で生きていていいのか、と問われた。確かに災害によって、社会の問題点が顕在化し、それらを変える契機となる可能性が生じる。

一方で、ステイホームという呪文は強力だった。家にいることがパンデミックを乗り越えるために最も良いことであるとされ、何かしたくてもできなかった人が多かったのではないだろうか。他の災害に比べ、「絆」は生まれにくい状態だったように思う。災害時に人を助けることは生きる意味を与えてくれるというが、ステイホームによって、逆に生きる意味を奪われてしまった人も多かったのではないだろうか。今の日本では、特に都会では、人との関わりが希薄になったと言われているが、それでも、人は、人と関わりあうことによって生きている。

政府による「ステイホーム」に多くの人が従った。その内容や方法に賛否はあれ、多くの人が従ったという点で、政府は機能していた。

しかし、私にはそれがみんな何も考えていないように映った。

ソルニットは、「アナキストは、人間には協力や交渉や互助により、自らを統率できる能力があり、暴力による脅しや権威は必要ないと考える理想主義者である」(p.129)とも述べる。

政府がいらない、と言いたいのではない。ただ、あまりにも日本人は政府に頼りきり、自分で考え、判断し、行動することをやめてしまったのではないか、と感じたのだ。

普段のしくみがそのままでいいのか、と問うてくる災害。そしてそのたびに人びとはアナキスト的に自ら何が必要なのか、何ができるのかを考え、行動し、絆によってその場に必要なしくみを創り出してきた。「ステイホーム」によって出現しにくかった、私たちが潜在的にもっているはずのアナキスト的な素質…
本当に危機に瀕したときに私たちが見出す、生きる意味はここにあったはずである。日常においてもこれを手放すことがないように、心に留めておきたい。


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