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踊り巡ってきた時間 #05 (30代半ば〜大船渡編)

岩手県大船渡市や大槌町、震災の被害を大きく受けた三陸沿岸に郷土芸能を習いに通っていくうちすっかり郷土芸能の虜に。
とりわけ大船渡で見た獅子躍は、本当に人が踊っているのか?と思うほどわたしには異形なモノに映り、惚れてしまって思い立ったが吉日、家族で移住するまでに至ったのです。



三陸国際芸術祭、習いに行くぜ!東北へ!!

郷土芸能に出会った経緯を整理すると、震災から3年と少しが経った2014年8月、JCDNという京都にあるダンスネットワーク団体が主催となって「三陸国際芸術祭」(通称;サンフェス)を開催するにあたりスタッフとして入って郷土芸能を見たことが最初でした。

https://sanfes.com/

メイン会場となった大船渡で獅子躍や剣舞、虎舞や七福神に韓国の能楽などといった芸能を見て、これまで前のめりに見て来なかった郷土芸能の数々に触れうならされました。
ラストを飾った金津流獅子躍大群舞は史上初の60人(通常は8人で踊る)を超える人たちで踊り、まるでこの世のものとは思えない強さと勇ましさと全身がぞくぞくする体験をしました(見た、というより体験したという言葉がしっくりくる)すごすぎて圧巻でした。

あぁぁ…なんて私はこんな身近にすごいものがあったのに知らないでのうのうと生きてきたのか!地元(八戸)近くにこんな凄いものがあったのに西洋のモノばかり追いかけて来ていたのか…と当時はかなり悔いていました。

ちなみに三陸国際芸術祭が動き出すきっかけになったのが「習いに行くぜ!東北へ!!」というプロジェクト。

JCDNの代表である佐東さんが、震災後に動き出して「習いにいくぜ!」に至った経緯を書かれたコラムからの言葉を一部抜粋⇩

「そもそも文化芸術というものは、その地にすでにあって、"文化芸術による復興"とは、そのすでにある文化芸術を、外からの人間がサポートすることなのではなかろうか、と思った。外からのアーティストが自分のできることを行うことも大事だが、もっと大切なことは、その専門性を活かして、その地で失いかけているものを絶やさないようにすること、外に伝えていくこと、文化芸術に携わっている人間しかできない形のサポートをすることなのではなかろうか。地元の方々が主役になって、こちらが受け手になることなのではなかろうか、と思った。」⦅ネットTAMより⦆

わたしは震災後まで三陸沿岸の地理すら分かっておらず、実際に行くことになって三陸の街のことを知ったので、震災前の様子を知りません。
震災前の写真を見ると、こんな建物あったんだ!と驚きばかりです。

サンフェスが終わった2014年の冬、甚大な被害があった大船渡も街では新しい建物や防潮堤ができ始め復興が加速している中、芸能に心が奪われ始めていたわたしはこの「習いに行くぜ」に参加することになり、当時1歳だった息子を連れて大船渡の浦浜念仏剣舞、大槌の臼澤鹿子踊りを習いに行きました。

見てると、へぇ〜かっこいいなー!踊ったことはないけど、すぐやれるだろうと教えてもらって動いてみると、全くできない自体…。
中学生や子どもたちに交じって踊ってみるもまったく頭に入っていかない。芸能団体の兄さんたちから動きの説明というはものはほぼなくて、見て真似して動いてみよう、というのがどの団体も当たり前。
小さい頃から五感を研ぎ澄まし見て音を聞いてきた人たちが踊っていくのが通例。
そこへ飛び入りしたわたしは何回も何回もやってようやく足がもつれずに動いてきたかな、ってところでいざ装束などをつけてみると、かっこよくいかない。
あれれ、会場で見た人たちは勇ましく踊っていたけれど、そこには1ミリも近づけていないじゃないか。

何かこう身体に違和感を感じるてしっくりこない。踊れない。

団体の人たちはほとんどの方が小さい頃から踊ってきていて、いくらわたしが舞台でいくつも踊ってきていても地元の人のやってきた時間にそんなわずかな時間で追いつけるはずがあるわけない。

2014年の冬に大船渡と大槌で少し習い、2015年の夏には大船渡の剣舞の初茶(初盆の家々をまわる)供養、秋には大槌のお祭りで鹿子踊りにも参加させてもらい(ちなみに次男妊娠中デシタ!)長男は可愛がってもらいながら密度の濃い時間を過ごしました。
子どもは宝だとでも言わんばかりに大船渡でも大槌でも大切に子どもたちを育てている環境がとても印象的でした。

14年の冬、インドネシアのダンサーミロト氏(右)と越喜来は浦浜地区の念仏剣舞の会長宅にて
15年の夏、再びミロトと浦浜念仏剣舞を習いに

豹変する人に魅せられる

いまとなっては当時の「すぐ踊れるだろう」などという自分の考えの甘さに呆れますが、芸能を踊ることは一筋縄ではいかないということに気づき、そうするとそれまで見ていた見方がグッと変わります。
実際に自分がやってみて動けない動きを、さっきまで煙草をふかして談笑していた兄さんたちがめちゃカッコ良く踊っている!
その変貌っぷりに驚くばかりでした。

三陸で兄さんたちのカッコ良さと自分の不甲斐なさを感じ、仙台に戻っては自分のダンスの仕事を続けていましたが、出会ってしまい心を奪われてしまった衝撃から逃れられず。
仙台で本番をいくつか終えて、第二子出産などもしてひと段落ついたタイミングで思い切って家族で大船渡へ移住することに決めたのでした。
(この思い切りの決断は人生で何度あったのだろう…笑)

浦浜念仏剣舞、浦浜獅子躍の会長である古水力さん

浦浜の会長である古水力さんは、震災後に時間を経たずして獅子躍も剣舞も活動を再開させ「こんな時だから踊るのだ」と地域を芸能で活気づけていった立役者です。わたしにとって大きな存在の一人で、力さんが居たことは移住への大きな理由の一つでもあります。


子どもは生き生きと、わたしは悶々と

お世話になる大船渡市越喜来の浦浜地区では剣舞もやる二刀流の団体だったため、長男(当時4歳)と一緒に剣舞を週1回子どもたちに混じって練習に通い出しました。

一番後ろが長男、このとき一緒に練習した子たちはいまでは中学生や高校生!

30代も過ぎ、ダンスでもそこそこのキャリアを積んでいたわけですが、剣舞の練習では会長や兄さんたちのゲキが飛んで来て、相変わらずしっくりしない身体に四苦八苦。そんなぎこちない踊りをしているわたしにあるお母さんが「ミキより(うちの)子どもの方が掴んでるね」という言葉をかけられたときには軽いショックを受け、ダンスをやって来た身体が邪魔をして踊りきれない悶々とした時間が経過していました。


郷土芸能を親子で追いかけて見る休日

自分自身は踊れないでいても、芸能は見るたび刺激で溢れていて、休みのたびに岩手県内あちこちの芸能を見に車を走らせました。
自分たちが踊っている剣舞も隣の地区はまた違うし、シシオドリも太鼓を持って自分たちで歌いながら踊る太鼓系と幕を持って踊る幕系と大きく分ければ2種類あり、そしてこれもまた地区によって面白いくらいに違いがある。
神楽や虎舞、盆踊りに権現さまなどとにかく芸能がここにもあそこにもと存在していてインプットに溢れた休日。
見たものを子どもたちが模倣して踊る、そんな幸せな日でいっぱいでした。


やって来たこととどこか通じる

しかしこんなにどうして自分は郷土芸能に惹かれるのだろう?
衝撃的な出会いに生活の場所まで移し地元の人たちに混ざっていったものの、ここについて何年かに渡り思考を巡らせました。

動き(方)自体は違えど、芸能にある特有の自由さはわたしにとって魅力的な一つ。ここでの自由とは、舞台特有の始まりから終わりまできちんと整えられたものではなく、踊り手に委ねられた踊りの力加減、習って間もない人でも出してしまう実験的なトライアル。そしてそれを許してくれる地元の人たちの温かい視線が踊り手を逞しくしてくれて居たり。
「あの子上手くなったねぇ〜」とか「いやいや、まーだ踊ってるもの」とか地元で年に1回供養やお祭りで踊ることはどこの団体にも大切な場としてありますが、それを見守る地元の人たちも目が超えている。

踊り手への委ね方、踊りをやめるタイミング、実験的に試す。
考えてみれば自分も若い頃に横浜で踊っていた黒沢美香&ダンサーズに繋がる部分が見えてきたのです。
(美香&ダンサーズについては過去投稿からご参照を↓)

郷土芸能の振付はいま目の前の人に振付けしたものではなく、遠ければ何百年も昔から誰が振付したか分からず口伝で伝えられ踊り継がれてきたものがほとんど。時代に合わせて動きや構成は変えてきているものの、現代の我々にまで踊り続けられています。
年数こそ違えど黒沢作品も目の前の人に振付をしたわけでない何十年前のものを踊ることが度々あり、踊った人から次に踊る人へ伝承が可能である何人ものカラダが通過してきた強度ある振付というものがありました。
ダンス作品は作品の中での振付というものが多い中、エモーショナルやシチュエーションではなく、身体に特化した振付であるから、振付の場に居ない人へも伝承が可能であるのが美香&ダンサーズの特徴の一つ。
さらに付け加えるならば、日常的な稽古がダンサーズにはあり、そこは誰でも出入り自由。それは芸能でも8人なりそれ以上の人数であっても、誰でも良いという語弊がある言葉を使えば誰が踊っても良い。
この人でなければならない、ということではなく、居る人で踊る
ここもまた共通にあるのです。

なるほど、わたしは美香&ダンサーズでも郷土芸能でも結局面白みを見出して居る部分は根本的に同じなのかと納得。

獅子躍、デビュー

さて、話は大船渡での練習に戻り、いよいよ獅子躍を踊れることになり練習が進んでいきました。唄と太鼓と踊り、同時に進めていく不器用なわたしには至難の連続。
それでも日々の練習は実り、2018年地元の港まつりで見事な鮮烈デビューを果たし!と言いたいところですが、これまでの踊り人生の汚点とも言うべき失態続きの獅子躍デビューに終わったのです。。。

剣舞は面をつけたら一気に視界が狭まり、練習でできていることもできない。獅子躍も頭を含めた装束(約15キロ!)をつけたら踊れない。
ここです!
カラダだけで装束無しで練習していたら踊れそう!と見えてきた光も本番では目の前の幕に光は遮られ盗み見ることもできなくなったわたしは不安で狼狽え、その後もこの装束問題はわたしの踊りに何度も大きな壁として立ちはだかるのでした。。。

とはいえ、こんな勢いだけでやってきたよそ者のわたしたちを温かく受け入れてくれた浦浜のメンバー。剣舞と獅子、どちらも厳しく稽古をつけていただきそれでもなかなか上達しなくても一緒に踊ってくれるそのことにいつもいつもありがたさでいっぱいでした。

離れても踊り続ける

子どもたちは自然溢れる中で地域の人たちに大切に見守られながらカラダいっぱいたくさんのことを吸収して生き生きと楽しんで毎日を送っていました。
その間にパンデミックは起き、毎日を健康に当たり前に過ごすことへ力を注ぐことが余儀無くされ、もちろん芸能の発表の場もぐんと減ります。
わたし自身数年前に家族を失い地元八戸への思いも募り、後ろ髪を引かれる思いで大切な場所になっている大船渡を離れることを決めます。
住んでいた5年は短いようで思い出がたくさん詰まった宝物の時間、離れる最後の1ヶ月はあちこちで涙涙涙。

とはいえ、剣舞も獅子も離れてからも本番には踊りに行けるときは行き、夏の初茶供養や浦浜が主体で行なっている8月16日の港まつりには帰って、大きくなっていく中高生メンバーや地元の人たちと顔を合わせ互いの近況話に花を咲かせるのがいまも楽しく、そしてこれからも親子で踊り続けていくつもりです。

人口3万5千人の大船渡には30近くの芸能団体があります。
この数すごいと思いませんか。
それぞれの地域にある神社の4年に一度ある五年祭というお祭りではほとんどの人が参加者という街全体が芸能に包まれている(そしてほとんどの人がそれを特別と思ってない)そんなすごい場所がわたしの帰る大切な場所。


踊っていて思うことの変化

あるとき剣舞を寺で踊っていた時に「存在が肯定されている」と急に感じて驚いたことがありました。
これまで自分(ダンス)が成立しているかどうか、存在をどうさせるかばかり探してそこを鍛えていたところもあったのですが、踊っていて「居て良いんだ」と安堵したというか安心感を得たのです。

なんのために踊っているのか。
先祖供養、悪霊退散、五穀豊穣など踊る目的がある芸能。

そしてわたしは一体なんのためにダンスを踊っているのか?
(これからも踊り続けようとしているのか?)
いま一度考えるきっかけにもなりました。

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