自己紹介(教員〜フリーランスを目指すまで編)
おはこんばんにちはー!
みきまること、みきてぃです!
この記事では、自己紹介を書きます(^^)
今回は、「私と教育」をテーマに、教員になってからフリーランスを目指すまでの「感情の動き」や「理想の生き方の変化」などにフォーカスしてみました。「今後の野望(やってみたいこと)」も自分用のメモとして書いておきます。
※内容的にどうしても「教員時代の不満」が多くなってしまっていますが、教員の皆さんを否定したり攻撃したりする意図は全くなく、
あくまでも「いち個人の体験談」として捉えていただけると幸いです。
予めご了承ください。
不快だと思われる方はスルーして
「基本情報」と「おわりに」だけ読んで帰ってください(笑)
今回も非常に長くなってしまいました。
「そんな長い自分語り興味ないよ〜」という方は、最後に超ざっくりお話をまとめているので、「おわりに」だけでも読んでもらえると嬉しいです!
⒈基本情報
名前 みきてぃ
好きなこと ウクレレ、ライブ、友達と遊ぶ、美味しいスイーツを食べる
好きなアーティスト いきものがかり、ヤバイTシャツ屋さん、SHISHAMO
好きなキャラクター すみっこぐらしの「ざっそう」、ぐでたま
部活とか 吹奏楽、軽音楽、茶道、自然観察、畑耕す、ボランティア(キャンプリーダー、災害復興支援)
⒉なぜ教員を目指したのか?
理由が3つあります。
①「すべての子供たちに平等に愛を注ぎたい」(だからあえて義務教育)
②「学ぶことの楽しさを伝えたい」
③「未来の子供たちに、より良い影響を与えたい」
15歳の時にはもうすでにこう決意していました。
(ざっくりいうと家庭環境とか、恩師への憧れとかがきっかけです。)
当時は身近な大人のロールモデルが親か先生くらいしかおらず、
職業の選択肢も狭かったので教員以外の道は見ていなかったです。
時の経過は恐ろしいもので、もうあれから10年が経ってしまいました!
25歳の自分は、理想の自分になれているかな?
⒊新卒で小学校教員になる
「すべての子供たちに平等に愛を注ぎたい」
→日々の授業や学級経営、謎の大量タスクに忙殺されて、
とてもそれどころではないのでありました…。
「学ぶ楽しさを伝えたい」
→そんな余裕1ミリもありませんでした。
とにかく毎日子供たちを生きて帰すのに必死(笑)。
指導書通りに進めるのが精一杯で授業研究もまともに出来てなかったです。
加えて、授業でやっていることが
「自分が心の底から伝えたいこと」ではないと感じるようになり、
「なのに楽しさを伝えるなんてできないよ」とモヤモヤ。
さらに「静かに話を聞かせなくちゃ」「全員を時間通りに着席させなくちゃ」という「集団の動かし方」みたいな面ばかりに労力をとられて、自分が本当にやりたかった教育とのズレが辛かったです。
あとは、フツーに考えてブラック労働でした(笑)。
教員ってみんなそんな感じだと思いますが。
余裕がない中でも「少しでも質の高い授業をしたい」「そのためには労働時間なんて気にしない」スタンスだったので、毎日12時間労働+休日も仕事が当たり前でした。
ここで恐ろしいのは、「いくら働いても残業代は出ない」ということ!笑 ここ重要!笑
「質を高めるためなら時間外労働もやる」という思いと同時に、
当時はゴリゴリの「時給思考」だったので、毎日のように時給計算しては教員の働き方に不満を募らせていました(笑)。
そんなこんなで、あまりの「理想と現実のギャップ」と「ブラック過労」に心を病んでしまいます。
「生きるために働いているのか働くために生きているのか分からない」「生きることさえ辛い、生きるのやめたい」
働き始めて半年経ったくらいから本気でそう思うようになりました。この時点ですでに心療内科を受診しているのですが、結局診断には至りませんでした。でも今思い返すとあれは「うつ」だったんじゃないかな、と思います。
しかし「生きるの嫌だ」からといって「死にたい」とはなりませんでした。そこが本当にラッキーだったなと思います。
「死ぬくらいなら仕事辞めたほうがマシだし」
「死ぬくらいなら、最後に人生でやりたかったことやってからにしたい。
そうだ、世界一周しよう!」
そう考え、この時に退職を決意しました。
そして感動の(?)離任式を迎えます。
子供たちの前で最後の挨拶。「世界一周します!」と宣言して一同の笑いとどよめきを誘ったことは、良くも悪くも忘れがたい思い出です(笑)
⒋小学校教員を辞めて世界一周を目指す
世界一周をする手段のひとつに
「ピースボート」という船への乗船があります。
居酒屋のトイレなどによく貼ってある「世界一周100万円!」みたいなポスターを見たことはありませんか?
実は、あのポスターを貼った枚数に応じて乗船代金が割引されるシステムなのです。
私は退職してすぐにポスター貼りに勤しみました。1カ月で10万円分くらいの割引を貯めたのですが、ここで早くも貯金が底を尽きました(笑)。
⒌すぐに貯金が底を尽きてリゾバで仲居として働く
リゾバを選んだ理由
人生で一度はやってみたいことリストの中に「リゾバ」が入っていました。
それともう一つ目的がありました。
「どうせ教員以外で働くなら、教員が本当にブラックなのか他の仕事と比べて確かめてみよう!そのために、教員と同じくらいの給与を稼げる仕事をしてみよう!」
という、身を削った実験です(笑)
「今の自分にすぐ始められるのはアルバイト。時給制のアルバイトで月収30万円くらい稼ぐために働いたらどんな感じなんだろう?」
というわけで、時給1300円くらいで稼働時間が長い勤務地を選びました。
時給1300円で月30万円稼ぐとは…つまりそういうことです。
そう、超、長時間労働!
いちばん凄かった時は30連勤で、あれは本当に地獄でした…(遠い目)
中抜け休憩が2〜3時間あるのですが、
毎日6:30〜23:00くらいの労働です。
毎日12時間以上働いてます。あれ?教員時代より働いてない?(笑)
ここで、
「肉体労働力と時間の切り売りには限界があるんだ…」と痛感しました。
「教員と比べてどっちが良かったか」と聞かれると、結論は「働き方に関する価値観による」です。正直ブラックかどうかで言えば多分どっちもブラックです。(笑)
ですが、私はリゾバに関しては「ゴリゴリに稼ぐ」「稼ぐためなら長時間労働も厭わない」スタンスで行ったため、あまりブラックとは感じませんでした。残業代も深夜手当も出ますしね(ここ重要)。
ただ、「そういう価値観じゃなく、うっかり来てしまった人」には耐えがたい過酷な環境だったと思います(笑)。
実際に私が居た7ヶ月の間だけでもかなりの人が辞めていきました。
「あれ?昨日来た新人さん、もう帰っちゃったの?」とかはザラです(笑)
兎にも角にも、私はここで働いたことで、
「接客業が好きだし、向いている」ということに気付きました。
それと同時に
「やっぱり子供や教育には携わりたいな」
「肉体労働力と時間の切り売りには限界があるな…」
と感じていた時でした。
タイミングよく、特別支援学校での勤務のお話をいただきました。
心が疲弊しきっていた私は
「もうしばらく学校現場には戻らない」と決めていたのですが、
「特別支援教育」は学生時代からすごく関心がある分野でした。
それに加えて、
「小学校とは違う校種なら経験してみたい」
「こんな自分でも誰かの役に立てるなら…」
「安定収入がほしい(世界一周資金を貯めたい)」
という思いがありました。
そして悩みまくった末、お話をお受けすることにしました。
⒍任期を終え、特別支援学校へ 天職かもしれない
結論「特別支援教育ってめちゃくちゃ自分に合ってるやん!え、天職…?」
特別支援学校という場所は、その名の通り「特別な支援が必要な」子供たちが通う学校です。知的障害部門と肢体不自由部門に分かれていますが、どちらも本質は同じです。子供ひとりひとりの発達段階や成長スピード、得意不得意が違うので「個別に学習内容を設定し、個に応じた支援する」のです。
子供たちひとりひとりとじっくり向き合い、「本当に必要なところに本当に必要な支援をする」日々はとても幸せでした。
小学校で感じていた、「自分は集団指導に向いてない」「授業で扱っている内容は自分が本当に伝えたいことではない」などというモヤモヤが、特別支援学校ではほぼ無縁だったからです。
少人数とはいえ、もちろん集団授業もあります。私はアンラッキーなことに、1番苦手かつ嫌いな教科であり集団を動かさねばならない教科「体育」を担当することになってしまい、実際そこには結構苦しみました。
ただそれを差し引いてでも、「特別支援教育」という概念に共感し、この場所で貢献したい、という気持ちが強かったです。
そんな思いもあって、いよいよこのまま定職に就くのか、と考え始めます。特別支援の教員免許取得も教員採用試験受験も、本気で挑戦しようと計画を進めていました。
しかしそんな時…
まさかの新型コロナウイルス大流行 生きる希望を失う
そんな時にコロナ渦になってしまいました。
私の趣味は、カラオケ、フェスやライブに行く、友達と遊ぶ、いろんな人に会う、旅行、とかだったのです。
見事に、制限されてしまうものばかりでした(苦笑)
休日の楽しみ、つまり「生きる唯一の希望」みたいなものがすっかりなくなってしまいました。
コロナ渦以前でも、実際は仕事に疲れて休日は寝るだけ、みたいなこともよくありましたし、私は1人の時間も絶対必要な人なので、省エネのために引きこもることだってよくありました。
でも、それは「自由に選べる」上で自ら選んでいるのであって、
コロナで行動が制限され、「選べない」から仕方なく引きこもるのとはわけが違うのです。
これはわりと国民皆さんそうかもしれませんが、
私も初めの半年くらいは意外に平気でした。
むしろ在宅をチャンスと捉え、「凝ったお料理してみたり」「ウクレレ弾きまくったり」「ライブ配信してみたり」「曲作ってみたり」「YouTubeみたり」
まあ、わりとありがちな「おうち時間」を楽しんでいました(笑)
でも、半年たっても一向に見通しが立たない現状。
さすがに心が疲れてきました。
仕事の性質上、感染には人一倍気を使わなければならず、
さらに完璧主義で真面目だった私は「絶対に感染しちゃいけない」というもはや強迫観念にすら近い気持ちで、ひとりでの外食さえできませんでした。
周りの友人も教員が多く、みんなその辺はシビアです。
当然、誰に会うこともできませんでした。
しかもタイミング悪く、その頃校内で異動がありました。
それもけっこう急に(笑)
それはもう引き継ぎをめちゃくちゃ頑張りました。
職務の多忙化、異動による環境の変化、これだけでも結構ストレスだったと思います。(異動が嫌だったとかそういうわけではないです。単純に忙しかったのです。たぶん…。)
コロナで疲弊し、職務上のストレスでで疲弊し、気付いたら職場に行けなくなっていました。
誤解なきように書き加えておきますが、職場自体はめちゃくちゃいい職場でした。人間関係も悪くなく、よくありがちな嫌な上司などもいません。むしろ皆さん本当に優しくて、申し訳ないくらいでした。
教員として尊敬できる方も何人もいらっしゃいました。先輩後輩関係なく。すごく恵まれていたと、今でも思っています。感謝してもしきれません。
ただ一つだけ残念だったことは、
「自分の悩み」を相談できるような、いわゆる「同僚」がいなかったこと。
でもそれは、自分がそういう人間関係を築こうとしなかったからなのであり、周りの人たちは何も悪くないです。
小学校勤務時代、職員の方々との人間関係の構築もそれなりに頑張っていました。そのおかげでものすごく価値の高い学びができましたし、辛いときに相談に乗ってくださった先輩方もたくさんいました。
本当に感謝しています。
でも…そんな「あれもこれも全力で頑張る生活」は自分にはキャパオーバーだったんです。
だから今回はとにかく省エネモードでした。
人間関係も、必要最低限の関わりしかしないようにしていました。
それでもやっと生きてる…って感じでしたが。まあ自業自得ですよね。
心の余裕を失い、「働き方」に苦しみ始める
私は特別支援学校に赴任した当初から、小学校勤務時代の反省を生かして、とにかく「定時退勤」を目標にしていました。仕事も最低限しかしない。
今振り返ると「なんか残念な人だね」「教員としてそれはどうなの」などと言われても仕方ないですが当時は心が荒んでいたので、
「何時間働いたって、どんなに仕事の質を高めたって、もらえるお給料は変わらない。それならせめて自分の健康くらいは守りたいので、なるべく長時間は働きたくないな」と考えておりました。
決して楽して稼ぎたいとは思わないけれど、頑張りが給料に反映されないなら、身を滅ぼしてまで頑張る必要ってあるのだろうか…といった思考です。
教員という仕事は、お金はもちろん、それ以外の面でも「目に見える結果」というものがほぼ返ってきません。
自営業とかでバリバリ稼いでいる人なら「は?」って感じかもしれません。企業で利益を出すために働いている会社員の皆様でも「は?」と思うのではないでしょうか。
「学校」で働いていると、「そこで自分がどんな価値を生み出しているか?」「どれくらい貢献しているか?」その結果は、お金でも、数字でも、測れないのです。それが良くも悪くも「教育の世界」なのです。
私はこの働き方は、「無償の愛」に近いんじゃないかと思っています。
だからこそ、教員の世界で働き続けておられる方というのは、「本当に心からこの仕事をしたい!」か、もしくは、「そんなもんだ」と割り切っているか、このどちらかのパターンだと思っています。
私はどちらにも振り切れなかったみたいです。
だから私は本気で、世の中の先生たちを尊敬しています。
周りの人たちと比べて落ち込む日々 自己肯定感の欠如
タイミングというのは不思議なもので、当時たまたま、周りの友人が結婚ラッシュを迎えていました(アラサー女子あるあるですかね)。
さらに、私はずっと臨時講師(非正規雇用の教員みたいなもの)として働いていて臨時講師の友人もたくさんいましたが、この頃(教員2〜3年目)になってくると、正採用の人つまり教員採用試験に合格する人も結構いました。
一般的に、結婚とか正規採用、正規雇用というのは「おめでとう」と言われます。「明らかな成功」のような風潮があります。確かにその人の人生の価値観にマッチしていれば大成功だし祝福すべきことです。
臨時講師の友人と話していても、みんな私よりも激務なのになぜか楽しそうで、目が輝いていました。彼らは心から教員という仕事と子供たちを愛しているんだなあと、しみじみ感心する一方で、「私は教員には向いていないのかもしれない」と感じるようになっていました。
この頃の私は荒んでいました。こういう他人の成功みたいな、キラキラした面を見ては、「なんで私は…」と落ち込みました。「25歳にもなって不安定な労働」「恋愛では嫌な思いばかり」「教員生活さえも楽しくないし」「プライベート(休日)だって楽しくない」「私は生きるだけで必死なのに…」
こうなるともう、病みまっしぐらです(笑)
当然、仕事に対する考えもどんどんネガティブになってきます。
仕事を愛せない自分 再び「集団授業」に苦しみ始める
労働時間に対する省エネな気持ちとは裏腹に、「本当は私ももっと授業の質を高めたい」「もっと頑張りたいのに」という思いも常にありました。
でも健康のためにセーブしてる、みたいな。
次第に「自分ってこんな薄っぺらい仕事のやり方しかできていなくて、教員としてどうなんだろう」などという風に、自分を責めるようになっていきました。
そうなると、だんだん集団授業をするのが苦になってきました。
「こんな内容の薄い授業しかできなくて申し訳ない(知識の浅さゆえ)」「自分がやりたいこととは全く違うし自分自身が子供たちに特に伝えたいとも思わない内容なのに、やらなきゃいけないからやる…そんなの心苦しい」
(教育上、どれも大事なことは百も承知ですが)
「そもそも集団を動かすのとか苦手なんだよ…向いてない」など。
毎回授業のある前夜は、胃が痛かったなあ。
そして、こんな風にも考え始めます。
「そもそも自分は人前に立って何かを教えられるほど、先生と呼ばれるほど、立派な人間じゃない」
「子供たちにより良い影響を与える大人になりたかったのに、今の自分はそれどころか自分の人生すらちっとも楽しくない。人生を苦しみながら生きている大人、人生が全く楽しくない大人が何かを語っても、説得力はあるんだろうか。少なくとも私は、子供たちに未来に希望を感じて生きてほしい。しかし今の自分にはそれを体現できていない。」
こう思うようになると、「あれ?(天職だと思ってた)仕事が全然楽しくない。むしろ苦痛や…」と思うことが増えてきました。
さらに
「でもそれは自分が多くを望みすぎ(理想が高い)なだけ」
「社会人なら誰でもそれくらいはある。そこを割り切れないのは、ただの甘えだ。」「お金もらって働いてるのだから、辛いことはあって当然。」
などと、余計に自分を責めてしまう、負のスパイラルでした。
⒎休職、そして2度目の退職
そんなこんなで、なんとか騙し騙し働き続けていたのですが、
ある日突然、職場に行けなくなりました。
公共の場でも、人と一緒にいても、訳もなく涙が溢れてきました。
朝目覚めても、体が思うように動きませんでした。
病院に行きまして、「うつ」と診断されました。
こうして、やむを得ず休職することになりました。
そろそろ1カ月が経つという頃に、退職するか否かの判断を迫られました。
それまでめいいっぱい考え、悩んでいましたが、
気付いたら電話越しに「退職します」と伝えていました。
それが私が出した答えでした。
退職が決まり、ほぼ誰もいない職員室でせっせと荷物をまとめ、ご挨拶をして、本当に退職してしまいました。
1回目の退職とはわけが違いました。
「初めてだから仕方ない」「気の迷いかもしれない」
という免罪符がもう使えません。
今回ばかりは、完全に「もう私は教員を辞めた」のです。
1年目みたいにブラック過労でもない。人間関係も良好だった。
何より、
特別支援教育というものは、私にとっては素晴らしくマッチしていた。
それなのに「辞めちまった」のです。
病気になってしまうほど、体が拒否反応を起こしていたのです。
なんだかもぬけの殻のような、一方で肩の荷が降りたような、
そんな複雑な気持ちでした。
⒏「フリーランスに、私は、なる!」
仕事を本当に辞めて時間も何もかも自由になった私は、
1カ月間ベッドの上でひたすら
「今の自分はどういう人間なのか」「これからどう生きていくか」
を考えました。
そして大切なことに気がつきました。
「毎日早起きしなくていい」「毎日満員電車に乗らなくていい」
「毎日職場で周りの人に気を遣って上辺だけの人間関係を保たなくていい」「ご飯をゆっくり、食べたい時に食べたい量だけ食べていい」
…など。
こんな、毎日当たり前に行っていたことからの解放?みたいなことが、
ものすごく嬉しかったのです。
と同時に、ああ自分はそういう「働き方」の部分が辛かったんだ。と気づきました。
そして、
「(将来的にはやっぱり)子供と関わりたい」
「(集団授業は苦手だけど)教育に携わりたい」
「子供たちに良い影響を与えられるような大人になりたい」
という気持ち、自分が根っこの部分で大事にしていきたい本質的なところはちゃんと残っていた、とも気づくことができました。
さらに、まずは自分自身の人生をめいいっぱい楽しんで、いつか子供たちに「大人って楽しいよ!」「人生っていいよ!」と伝えられるような大人になろうと思うようになりました。
まずは自分自身の健康と、自己実現を目指すことにしたのです。
そのためにもっとも最適解に思えたのが、「フリーランスで生きる」
ということでした。
こうして私は今、フリーランスを目指しています。
(すでに勝手にフリーランスを名乗っていますが、今は生計も立っていないので実質「なんもしてないただのフリーなだけの人」になってしまっています(笑))
⒐今後の野望(教育にまつわること) 閃いたことメモ
・教育大生に「フリーランス」「就活」などの「教員や教育機関に勤める以外の働き方もある」という選択肢を広めたい。あと、自己分析の大切さを強くお伝えしたい。
・ずっと公務員をしていると、フリーランスという人種との出会いが皆無(下手するとそんな存在すら知らない)なので、
「教員×フリーランス」「公務員×フリーランス」「教育大生×フリーランス」みたいに異次元に生きる人たち(笑)が普通に出会って普通に交流できるようなコワーキングスペース的な空間を作りたい。
教員も持ち帰り仕事多いし…。フリーランスも労働量は多い人が多数だと思うので、そういう人たちが集って各々仕事をするというのは意外とマッチするのではないか?
とにかくもっと働き方、生き方の多様性を広めたい!
いろんなロールモデルが身近にいる感じにしたい。
何かと進路が狭まりがちな教育大生にもそういう交流をぜひおすすめしたい(自分が学生時代にもっと多様な生き方に出会いたかったから。)
・高校生に、いろんな生き方や働き方があるし、なんだって目指せる
と伝えたい。
世の中にはいろんな大人がいて、いろんな働き方があって、どんな大人にもなれる。もし今学校が辛かったとしても、大人はもっと自由でもっと楽しい!今生きるのが辛くても、生きていくのも悪くない!と伝えたい。
私にとっての高校時代のロールモデルは「高校の先生」だったけど、
先生以外のロールモデルとなりうる人にも出会ってみてほしい。
子供にとっての身近な大人(ロールモデル)は、親か教員くらいだから。
もっと多様な生き方、大人に触れていたら、人生の選択肢も増えて、より良い未来を選択できるかもしれないから。
おわりに
簡単におさらいすると
・高校時代
恩師の影響で教員に強く憧れる
・大学時代
ゴリゴリに教育学を学ぶ
・新卒 小学校勤務
夢が叶って嬉しい反面、地獄を見る
・退職
世界一周を試みるも貯金が尽きリゾバへ 時間の切り売りに限界を感じる
・特別支援学校勤務
天職かと喜んだ矢先のコロナショック 生きる希望を失い、心を病む
・2度目の退職
うつになり退職 理想の人生のあり方を考えた結果フリーランスを目指す
こうして振り返って見ると、人生のほぼ、病んでますね(笑)
まあ、そんなことも含めておもしろ人生です(^^)
以上、「教育と私」がテーマの自己紹介でした!
あえてこのストーリーから学べることがあるとするならば、
「自分の身と心は大切にしよう!」
「そのためにも、
人生で大切にしたいことはなんなのか、自分と向き合ってみよう!」
「大切にしたいことが分かったら、
それをもとに生き方や働き方を選択しよう!選択肢はいくらでもある!」
こういったところでしょうか。
「教育」とは話が逸れてしまっていますが(笑)
要は、「自分が愛せる仕事のやり方をしよう」ということですね。
私もいつかは、
「教育」「子供」…ここに愛をもって、でも自分も大切にしながら、できる仕事をしたいなあ。
というわけで、終わります!
最後までお読みいただき、ありがとうございました(^^)