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正解ばかり求めると自主性が育たない
今日は、子どもに正解ばかりを求めず、もっと広い視野を持ちましょう、というおはなしです。
親だったら子どもに、正しい行動や言動を期待してしまうと思います。でも、正解ではなくもっと広く物事を見てみると、いつでもしっかりさせなきゃ、っていうのがなくなって気持ちも楽になりますし、もっと広い心を持てるようになります。
正解とは?
学校や、社会に出てからも、常に正解や正しいことを求められませんか?学校では正しい回答、会社でも正しい受け答え、マナーなど・・・。でもこれってすごく堅苦しいことじゃないですか?
まず、正解とは何か?ということについて、哲学的に分析してみましょう。
正解とは文字通り、正しい答え、正しい回答ですね。
答えがある、ということはその前に問題があるということです。問題があるから答えがある、という状態。つまり言い換えると、答えっていうのは問題・問いがなければ存在しない概念です。急に、「私さー、答えは14だと思う」って言われても、え?なんの答え?ってなりますよね。
正解があるところには同時に問題もある。そして、正しい答えがあるのなら、正しくない答えもある。ここが、「正解」と「答え」の違いでもあります。
正解↔︎不正解・間違い
答え↔︎問い
日常にある正解
では日常、単なる答えではなく、私たちはどれだけ正解を求められているのか?
例えば、電車のなか、バスのなかでの過ごし方にも正解がありますね。どんな過ごし方でしょうか?
お金を払い、席を一人で2席も3席も専用するようなことはせず、携帯電話で話したりせず、静かにしている。これが、正解として求められる行動かと思います。
正解を探す文化は、人との関係にも染み込んでいます。
空気を読む、というのも、ある意味正解を探しているわけですよね。ここではこういうことを言うべき、するべき、っていう正解を、誰かが用意しています。空気を読むというのは、場の雰囲気を壊さないための振る舞い方の正解を探すことです。
・・・これだけ小さなことでも正解を探しながら生きていると思うと、すごく疲れませんか?
問いも答えもあるなかで、なんとか問題の出題者に「これが正解ですか?これじゃなかったらあれが正解ですか?」と、お伺いをたてている状態のようです。
哲学では正解を探さない
しかし!哲学では、正解を探すことはしません。誰にも、何が正しくて、何が間違っているかなんて、決められないからです。
なんで世界が作られたのか?という問いや、人間はなんのために生きているのか?という問い。それが正解!と言ってくれる存在なんて、いませんよね。地球上の人間、誰も、「それ正解、100点!」「おしい、90点!」なんて、言えないですよね。
哲学で探すのは、正解ではなく、真理。本当のこと、真実なんです。事実ではないです。真理には、問い・問題も、答えもない。ただただ、本当のこと。としか言えないですが。。。
ここでの真理というのは、私にとっての真理、ではありません。普遍的な真理を探します。たいそうな話になってきましたが・・・真理なんて、問いもわからなければ正しい答えだってわかりません。誰が正しいか、間違っているかさえわからない次元なんです。
そう考えたら、誰かが用意した問題の正解を探すために必死に右往左往していることがすごく狭い次元のことだなって思えてきませんか?
私の今回言いたいことは、子どもにも、なんでも、正解を求めすぎないでくださいということです。正しい・正しくないという二極だけでなく、もっと広く、世界を見てみてほしいと思います。
正解を探そうと思うと、相手に合わせることになるんですね。自主性を阻害することになります。間違えることも怖くなってしまったり。
誰かの正解ではなく、自分で問いをつくって、自分の中の答えを探すほうに力を入れて欲しいなと思います。もしくは、いきなり真理に向かって突っ走るのもOK!なにかの真実を突き止める活動もいいですね。
考える活動も楽しくなるかと思います。
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