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ケアンズへの道16

われわれは喧騒を抜けてエスプラネード方面に歩いていった。公園を通って海沿いを歩く。誰もが使用可能の木製の椅子とテーブルがあり、家族らしき人たちが食事している。楽しそうだ。
海岸には船舶が停泊している。しばらく歩くとホテルもカフェもなく、人もいなくなる。辺りも暗い。
空を見上げる。南半球の星が満天に輝いているが、どれがどの星座なのか。

「二日は短いよなあ。担任の先生にオーストラリアに二日間行くって言ったら驚いてた」

「あと一日あったらどこに行きたい?」

「グレートバリアリーフ」

「へえ〜、意外やな」

「わたし、このまま行方不明になりたいわ。そんでオーストラリアに住むねん」

「どうやって暮らすん?ホームレスか」

「家族でオーストラリアに引っ越したら?それでわたしはインターナショナルスクールに通う」

「う〜ん、友だちと別れないとあかんで。何でそんなにオーストラリアが気に入ったん?」

「アジア人は不機嫌な人が多いけど、オーストラリア人はおおらかで陽キャ、人の目を気にしないし、店の人と客が対等。日本はそうじゃない。自由な感じがする」

アジア人が不機嫌というのは置いといて、そこまでオーストラリアが気に入ってくれたら高いお金を払って来た甲斐があった。

娘と話しているとステーキハウスの女性が言ったことを思い出す。

娘は今中1だけど、もう少しすれば父親と歩くのを嫌がるだろう。家族より友だちといる方を好むだろう。それでいい。親の役目は子どもを自立させることだ。

娘は言いたいことをズバズバ言う。怒るときは烈火のごとく怒る。その時に思わずニヤッとすると「笑うな!」とますます怒るが、自分の父のことを思い出して「遠慮なしに何でも言える関係」を嬉しく思っているのだ。
この前は怒って胸ぐらを掴まれたが、「おお、いいぞ」と内心思っていた。

私の父は厳しい人で手も出た。近寄りがたいところがあり、そんな父を私は小さい頃から敬遠していた。高校を卒業して生家を出ると嬉しくて仕方がなかった。会社に勤め、休みになるとアジアをほっつき歩いて、何年も帰らなかった。

娘が保育園の時だった。その頃娘は情緒不安定でイライラしていることが多く、些細なことで妻を非難して腹立ちまぎれに蹴ったことがあった。

私はカッとなって娘を平手打ちした。それでも反省しない娘を両手で掴み、寝室のベッドに押し倒してまた叩いた。娘はギャンギャン泣いた。

その時の私は理性を無くしていた。その時のことを思い出すと胸がキリキリと痛む。張られた娘の頰より、張った右手の方が痛いというのは本当だ。
だからその時、もう二度と体罰はしないと誓った。

私が30代の頃だったか。久しぶりに帰省したのだが、帰る時に父が「この家はお前の家だからいつでも帰ってこいよ」と言った。
父がそんなことを言うなんてと驚いた。

父が二年前に癌で亡くなった日は孫娘の10歳の誕生日だった。自宅で看取った妹は「自分の死んだ日を覚えてほしいと思って、この日に死んだんだ」と泣いた。

父は孫娘をとても可愛がっていた。
娘は僕が50歳の時の子どもなので、もっと父と孫との時間を過ごさせてやりたかったという思いはあるが、それは仕方のないことだ。

「さあ、そろそろ帰ろうか」

ゲストハウスに向かって歩いていると、交差点でホームレスが二人、大声を出している。

「あっちの道を歩こうよ」

「いやいや、大丈夫」

少なくともケアンズには白人のホームレスはいない。いるのはアボリジニだ。失業率は白人の3倍近くになる。政府はアボリジニの子どもを親から隔離し、文明化するための教育を施すという愚策を実施したこともある。これはアボリジニの文化を根絶することが目的だった。

線路内に入り、キュランダ列車を停めたのもアボリジニだった。

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