『シズコさん』と『神への告発』すさまじい母親と娘のこと
佐野洋子、『100万回生きたねこ』の絵本作者。詩人の谷川俊太郎と再婚。
彼女の母シズコさんには7人の子どもがいたが、3人が亡くなった。子どもを抱えて中国から苦労して引き揚げた。
著者が4歳の時、母親の手をつなごうとしたら舌打ちをされて手を振り払われた。この行為は彼女にとって一生のトラウマになり、それから一度も母親の手に触らなかった。母親になでられたり、抱きしめられたこともなかった。
このシズコさん、意地っ張りで他人に情けをかけず、「ごめん」と「ありがとう」を言ったことがない。住み込みの手伝いさんにも「お母さん、すごい人ですね。こんなすごい人に育てられたお子さん気の毒だと思いました」と言われるほど。
著者は母さんが嫌いだった、と何度も書く。母を好きになれないという自責の念から解放されたことがなかった。
ある時、認知症の母を老人ホームに入れた。母を金で捨てた。母を見捨てた罪悪感。ある日、童謡を歌いながらシズコさんの頭をなでていた時に思ってもいない言葉が出る。「ごめんね、母さん、ごめんね」と号泣。母はこたえる。「私の方こそごめんなさい。あんたが悪いんじゃないのよ」著者の中で何かが爆発した。
「母さん、呆けてくれて、ありがとう。神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう」
「神様、私はゆるされたのですか。神様にゆるされるより、自分にゆるされる方がずっと難しい事だった」
ふと思い出したのが『神への告発』だった。
「著者の箙田鶴子さんは脳性麻痺として重度の身体障害者である。人目を気にした母親の意向で学校へは通えなかった。
9歳のとき、結核を患った父親が43歳で病死し、福岡に暮らす母方祖父母の養女となる。
16、17歳ころから母と離れて他家に介護付きの下宿を始め、母の友人の福岡市の内科医宅に預けられる。母は父の部下と駆け落ち。母親は博多でバーを経営していたが、癌を患い、店を閉めて別府に転居。
1955年に療養中の母と暮らしはじめたが、同年母が47歳で死去。医師と結婚していた姉に引き取られたが、義兄が死去し、22歳から33歳まで救護施設で暮らす。
1977年、波乱の半生を綴った『神への告発』を上梓して話題となる。印税と執筆料で初めて収入を得、44歳で結婚。」
(「Wikipedia」から抜粋)
ジャーナリストの千葉敦子との往復書簡『いのちの手紙』で箙田鶴子はこう書いている。
『神への告発』を映画化しようとした(結局頓挫したが)大島渚が箙に「あなたは母親を深く愛していましたね」と言われ、彼女は驚きながらもその通りだと首肯した、と。
幼い頃からネグレクトなどの虐待を繰り返した母親をである。
親と子。母と娘。
シズコさんは寝たきりになる。
呆けてから穏やかな老女となった。
『シズコさん』のラストを読むたびに泣きそうになる。
「私も死ぬ。生まれて来ない子供はいるが、死なない人はいない。
夜寝る時、電気を消すと毎晩母さんが小さな子供を三人位連れて、私の足もとに現れる。
夏大島をすかして見る様に茶色いすける様なもやの中に母さんと小さい子供が立っている。
静かで、懐かしい思いがする。
静かで、懐かしいそちら側に、私も行く。
ありがとう。
すぐ行くからね。」