ジョン.レノンと三島由紀夫
ジョン.レノンが死んだとき、僕は19歳だった。
その時のことはよく覚えている。
その日、僕は父の兄が経営している左官屋のバイトをしていた。高校を卒業して奈良の紡績工場に就職したが、一年足らずでそこを辞めて地元に戻り、入学金を貯めて夜間大学に入ろうと思っていた。
残業で仕事が遅くなり、一息つくために職人たちの飲み物を買いに出かけた。
寒い夜だった。
カーラジオから聞こえてきた。
「元ビートルズのメンバー、ジョン.レノンがニューヨークで射殺されました」
寺山修司に
「一本の木にも流れている血がある
そこでは血は立ったまま眠っている」
という詩がある。パンクやニューウェイブに傾倒していた19歳の僕はビートルズもストーンズもジョン.レノンもろくに聴いたことがなかったが、その時の僕の感情は文学的な表現をするならば、自分の内部に蓄積されていた液体が気体となって外部へ蒸発して世界へと手を伸ばしているような、そんな衝撃だった。
2020年はジョン.レノン40回忌でもあり、三島由紀夫50回忌でもある。
三島由紀夫が自決したとき僕は9歳だったのだが、翌日の朝日新聞に切り落とされた首とそれを指差している自衛官二人の写真が掲載されていた。父が「三島由紀夫の首だ」と言ったのを覚えている。
昭和45年。東京オリンピックに次ぐ国家イベント、万博が開催され、日本中が繁栄と享楽という熱に浮かされていた。
もし大人のときにこの訃報を聞いたらジョンの時と同じような感情を持ったであろう。
翌年「ジョンの魂」を聴いた。
「mother」
「God」
陳腐な表現だが、
魂が震えた。
そこら辺の凡百なポストパンクより遥かに感情が動いた。
10代で母を亡くしたジョンにとって7歳年上のヨーコは妻であり、母だった。
20代の終わりにダコタハウスとセントラルパークにあるストロベリーフィールドのモニュメントを見に行った。
12月。多くの観光客が花束を捧げ、イマジンを合唱していた。
ハンバーガーショップで新聞を読んでいたらユダヤ人のおばあさんが話しかけてきた。
ダコタハウスを見てきた、と言うと
「犯人は狂ってるわね。ニューヨークは狂人がたくさんいるから」
と言った。
ジョンとサリンジャーの熱狂的なファンであったマイク.チャップマンはジョンを自分だけのものにしたかったのではないか。
と当時思ったが今もそう思う。