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当館収蔵の作家紹介 vol.4 横山大観(よこやま たいかん)

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当館には近代の日本美術を代表する作品を数多く収蔵しています。展覧会を通じて作品を見ていただくことはできますが、それがどんな作家、アーティストによって生み出されたものなのか。またその背景には何があったのか。それらを知ると、いま皆さんが対峙している作品もまた違った感想をもって観ていただけるかもしれません。
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今回この連載で取り上げるのは横山大観。美術に深い関心がなくてもこの名前を聞いたことがないという方はいないのではないかと思えるほど著名な画家です。美術の教科書で名前を覚えたという方も多いかもしれません。この近代日本を代表する美術界の巨匠の作品が三木美術館に収蔵されています。
『三保乃不二』の三保は駿河湾に面した半島で、その沿岸には景勝地として全国に名を馳せる三保の松原が広がります。その三保の松原と富士山を描いた作品です。雲なのか霞なのか。その向こうに雪をいただく頂上が顔を出した一瞬を捉えたかのような作品です。タイトルで不二という表現をつかったのは、この山が二つとない美しい山であることを横山大観が一番知っていたからに違いないと推察されるのですが…。横山大観氏は果たしてどんな人物だったのか? 
作品は、2023年6月1日〜2023年8月26日の展覧会「水とともに」でご覧いただけます。

「三保乃不二」1954年 横山大観作 三木美術館蔵

水戸生まれ。1878年(10歳)上京。岡倉天心が東京美術学校を作った際に親の反対を押し切り1期生として入学。主席で卒業。天心の目指す「日本の伝統から日本画の革新を創る」という姿勢を貫き、1896年(28歳)助教授になるが教育方針をめぐり、学内が2派に分裂。最終的には天心の不倫騒動が排斥に繋がり追い出されると天心と一緒に学校を去る。この時、一緒に出た仲間が菱田春草。学校を去った一派で日本美術院を創ろう!と茨城県五浦(いづら)に移転するが失敗。その時に天心に「空気は描けないのか?」と問われ、新たな手法として「没線描法」という線を使わない描き方を菱田春草らと開発。が、ぼんやりしすぎた印象で「朦朧体」と皮肉られる。日本での居心地が悪くなり、天心を訪ね欧米やインドを放浪。海外で個展を行うと意外と人気に。その後、日本にありがちな「評価の逆輸入」で日本でも火がつく。さらに一度失敗した日本美術院を再興し、気がつくと日本画壇の中心に。

画像提供:横山大観記念館

そして皇室からの発注をたくさん受けて、皇室御用絵師のように多くの作品を残す。また第2次大戦中には画家を志したことのあるヒトラーにも日本代表として絵を贈っている。戦後、右寄りすぎると批判されたこともある。数多くの富士山を描いているが贋作が多いことでも有名で、贋作を揶揄して「田舎大観」などと言われる。大観といえば大酒飲み。「酒の飲めないやつは弟子にできぬ」と言っていた天心の一番弟子らしく急性アルコール中毒で何度も死にそうになっている。倒れた際に、「最期に!」といって酒を求め、弟子が酒を与えたところ意識が戻ったという逸話も。北関東の酒蔵などで酒代として描かれた絵などが発見されることがあるので真贋はいつも論争になる。そして意外なのが、この見た目と画風なのに英語が話せたこと!実は美術学校に入る前に通っていたのが東京英語学校。海外でも和服で日本食を通すが外国人との交流も多かったという意外な一面があるのだ。ちなみに彼の脳はアルコール漬けで(喜んでいるかな?)東京大学に保存されている。

横山大観が晩年を過ごした家が横山大観記念館として台東区池之端にあります。京風数寄屋造りの立派な邸宅と400坪という手入れの行き届いた美しい庭園は国の史跡にも指定されています。東京へいらした際はぜひお立ち寄りください。
         [企画・制作/ヴァーティカル 作家紹介/あかぎよう]



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