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「頑張らなくていいんだよ」にモヤッとした理由
「頑張らなくていいんだよ」
優しさを含んだこの言葉に、なぜかモヤッとしたことがある。
本当にしんどいときに言われたなら、少しホッとするかもしれない。
でも、なぜか違和感が残ることがある。
その正体を探るように自分の心を覗いてみると、
「ああ、わたし、頑張ってみたかったんだ」と、ふと気づいた。
頑張ることをあきらめてきた?
子どもの頃、頑張るのが当たり前の環境だった。
何かを「やりたい」と言えば、「やるならちゃんとやりなさい」「頑張りなさい」と言われた。
適当にやることは許されず、ちゃんと結果を出すことが求められた。
でも、全部を完璧にできるわけじゃない。
そして途中で挫折したり、思うようにいかなくて落ち込んだりすると、「そんなに辛いなら無理しなくていいよ」と言われる。
「頑張るならちゃんとやるべき。でも、無理ならやめてもいい」
この二択が、ずっと自分の中に染みついていた。
どちらの選択肢を選んでも、何か満たされない気持ちが残った。
「頑張らなくていい」に感じたモヤモヤ
大人になってからも、この二択の間で揺れ続けていた。
「もう少しやってみたい」と思っても、「頑張るならちゃんとやらなきゃ」と思ってしまう。
そんなプレッシャーが苦しくて、結局「やめる」を選ぶこともあった。
でも、やめた後にどこか虚しさが残る。
「頑張らなくていいんだよ」と言われても、なんだか嬉しくなかった。
むしろ、「わたし、頑張ってみてもよかったんじゃない?」という気持ちが湧いてきた。
「無理しなくていい」という言葉の裏に、「あなたにはできないかもしれないから」というニュアンスを感じてしまったのかもしれない。
頑張らなくてもいい。でも、頑張ってみたくなる瞬間がある。
頑張った先に見える景色を、自分で確かめてみたかったんだ。
「頑張る」ってなんだろう?
これまでのわたしにとって、「頑張る」とは「正解に向かって努力すること」だった。
結果を出すために、期待される成果を出すために、頑張るものだと思っていた。
でも、そうじゃなくてもいいんじゃないか?
たとえば、毎日少しずつ続けること。
たとえば、うまくいかなくても試行錯誤しながら進むこと。
たとえば、「やってみたけど違った」と思ったら方向転換すること。
それも「頑張る」なのかもしれない。
「頑張るならちゃんとやるべき」じゃなくて、「頑張りたいからやってみる」でもいい。
「無理しなくていいよ」じゃなくて、「無理そうならやり方を変えてみよう」でもいい。
そう考えたら、「頑張ること」を少しだけ自由に感じられた。
わたしは、頑張ってみたい。
「頑張らなくていいんだよ」という言葉にモヤッとして、頑張ることを諦めていた自分に気づいた。
本当は、やってみたいことがあった。
本当は、もう少し踏み込みたかった。
でも、正解に向かって努力することに疲れて、「頑張る=しんどい」と思い込んでいた。
だけど、頑張ることはしんどいだけじゃない。
試してみたい。続けてみたい。挑戦してみたい。
その気持ちに素直になることが、「わたしの頑張る」なのかもしれない。
だから、これからは「頑張りたい」と思ったとき、素直に頑張ってみる。
たとえそれが、誰かが言う「ちゃんとした頑張り」じゃなくても。
たとえ途中で方向転換しても。
だからあなたも、「頑張らなくていいよ」と言われてモヤッとしたら、
「ああ、わたし、頑張ってみたいんだな」って、自分に言ってみて!
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