「価値観の変換」(もう少し詳しく書いてみた)
幼いころからの経験や知識、環境や持って生まれた性質などで、「多分世の中ってこういうところ」とか「きっとこうすることで上手くいく」「こういうところがあると上手くいかない」みたいな、いわば「仮説」を積み上げて、そこから自分なりの手法を編み出して生きてきているのだろうと思う。
「仮説」が積み上がると、自分に訪れる多くの事象はその仮説の強化になっていくケースも多いだろう。「ああやっぱりね」と。
さて、その仮説ではどうにもならない出来事や、自分自身の崩壊が起きることがある。
初回そんな目に合うと、当然、とても痛いし絶望する。それでも少し休んだり考え直したりすることで、もう一度「生きてみる」気になれば、改訂版の仮説を作ったりする。
これいわば言葉で言ってしまえば単に「価値観の変換」なんだけど、いやーその一言で済ますのかよ!?くらいの苦しさだ。
自分がそれを若いころ体験して、「失敗したんだ。ここまでの人生失敗だった。なんでそんな思い込みをしてたんだ。だから負け戦になったんだ。」くらいのことを考えていたのだが、すぐ近くで息子も似たような道を歩んでいるのを見て、そうか、意外に「通る道」なのかもしれないと思い、自分にも息子にも安心をした。
初回に大きい衝撃を受けて、じっくり腰を据えて自ら立て直しを行っていると、その後から来る荒波では意外に楽に改訂版作成が出来たりするのが面白いなと思う。
きっと最初に作る「仮説」には「こういう世の中だったらいいのに」「こういう自分だといいな」という希望的観測が多く含まれてしまうからなんだろうなと思う。
言わずもがな、息子のそれは不登校引きこもりへと至った「不具合」である。
彼はその最初の仮説を通すためにきっとちょっと「自分を浮かせて頑張っていた」のだ。心底くたびれ果ててがっかりして、すとんっと落ちたところが「自分の身体」だったんだろう。そこでちゃんと「一体化」することで仕切り直しをして再度立ち上がることができた。今度は頑張って浮いているわけではないのでどっしりとしている感がある。
「本来こういう子だったんだなあ」という感覚が私の側にあるのがいいなあと思う。