若いころの苦労は買ってでも「するな」 について
「若い頃の苦労は買ってでもしろ!」
なにやら、親戚のおっさん/おばさんやら職場の上司やらに、わけ知り顔でそう助言(?)された経験がある人は多々いるのではないだろうか。しかしあえて私はこう言いたい。
「若い頃の苦労は買ってでも避けろ!」
「買ってでもしろ」は完全に嘘であり、誤りだ。
このような嘘くさい名言を打倒するため、この記事ではその根拠を示すこととしよう。
「若いころの苦労は買ってでもしろ」の理屈
さて、なぜ嘘なのかを説明する前に「苦労は買ってでもしろ」と言う人は、なぜこの言葉を発しているのだろうか? もちろん、彼らには彼らなりの意図があるはずだ。
あくまで俺は、発言をした相手に対する理解は放棄してはならないと考えている。
そこで調査した結果、おおむね以下の論理であることがわかった。
これは「生き残った人間」の発言に思える。
つまり同じ苦労があったとして、苦労を越えられず死んでいった人々は、発言できない。
必然的に苦労を超えられた人間だけが発言することができるのである。
これに似た有名な逸話をあげてみよう。
人の精神は無限ではない
人の精神は損耗品である。
分類としてはガソリンや消しゴムやボールペンなどと同じものなのだ。しかしこれらの消耗は物質的に把握できるが、精神の消耗は本人以外(あるいは本人自身でも)わからない。
それなので、俺はよくこれを例えて説明する。
それが「心のトイレットペーパー理論」である。意味がわからないと思うが、とりあえずそのまま読んでみてほしい。
微妙に嫌だ。そんな時は心の中にあるトイレットペーパーでストレスを拭き取ろう!
カラカラッと出したペーパーでストレスを拭き取り、次へ。
稀にあるストレスだ。こんな時は心の中にあるトイレットペーパーでストレスを拭き取ろう!
カラカラッと出したペーパーでストレスを拭き、次の日常へ。
……と、こんなふうに、私たちの日常にはストレスが密接に関係している。
日常生活で感じる些細なストレスは一瞬イヤな気持ちになっても、特に意識せずまるで心の中のトイレットペーパーでストレスを拭き取るが如く、なんとなくやり過ごしている人も多いのではないだろうか?
おそらく、日常生活でストレスを完全に感じない人は存在しない(もちろん、あなたが釈迦やキリストなら別だが)ので、複雑に入り組む現代社会ではストレスのミルフィーユをうまく処理することが求められる。
しかし、こんな場合はどうだろうか?
なかなかにヘビーだ。このような重いストレスに対処するには、心の中のペーパーの量も頻度も増やさなければならない。カラカラッ!カラカラッ!カラカラッ!
……うわ、トイレットペーパー切れてるじゃん……。
当然だが、心の中のトイレットペーパーには限りがある。
現実でトイレットペーパーを補充したいなら、スーパーやらドンキホーテやらツルハドラッグやらで買ってくるだけで済む。
しかしながら、これはなにしろ心の問題である。心のトイレットペーパーを補充するには、十分な休息やそれぞれに最適な方法が必要不可欠で、即座に補充できるものではないのだ。
ストレスをペーパーで拭き取れないならば、溜め込むしかない。しかしそれにも限度がある。
ある一定のストレスを抱えると、人の精神は容易く壊れうる。
ストレスが過剰にかかり、拭き取れない(処理できない)状況が続けば、ある人はこの世から去る道を選び、またある人は精神に疾患を抱えてしまう。
若い頃の苦労は「重い」
この項目が1番重要である。すなわち、若い頃の苦労は「重い」ということである。
幼少期に過度の苦労を経験し、高ストレス下に置かれた人間はその後の人生において、永続的に影響が及ぶ。
具体的には内分泌、免疫系、神経系が成人しても悪影響を受ける。肺がん、心血管系疾患になる確率が上昇する。
ここで10代の自殺者数を見てみよう。
これを見ると小中高生の自殺者数はここ30年で2.5倍になっていることがわかる。率ではなく総数であることに注意が必要だ。つまり少子化で子供が減っているのにも関わらず総数が増加しているのである。
詳しい原因については専門家に任せるが、よくいわれる「最近の若者は根性が足りないから」「若者が打たれ弱くなったから」については全く正しくない。
一昔前に比べて現代社会は高度に発展・複雑化しており、そして子供は発展途上の精神と未成熟な身体を持ち、非常にセンシティブな存在であることを忘れてはならない。
彼らがどのような理由で死という最終的な手段を選んだのか、詳細な理由はわからないが、代表的なものとしてはいじめや家庭問題、学業不振といったものが挙げられている。
死に値するような理由じゃない・些細なことだと思うかもしれないが、少し待って欲しい。苦労は主観的なものだ。
ある人にとって苦痛ではないことが、ある人にとっては苦痛であることは多々ある。それは我々が処断できることではないし、考慮すれば「若い頃の苦労は買ってでもしろ」などとは口が裂けても言えない。
そしてこれらは間違いなく苦労だ。
若い頃の苦労は健康や死に直結する。つまり若い頃の苦労は「重い」のだ。
私はこんなものは全く必要ないと言い切れる。
苦労はみんなしている
そもそもだ、苦労はみんなしている。
わざわざ苦労をAmazonでポチらなくても、上記に書いたように、生きているだけで大なり小なり苦労は皆しているのだ。
他の人の苦労を数量化することはできないし、すべきではない。
それを人生経験や根性や努力という言葉でパッケージ化し、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」というのは無責任としか言いようがない。
以上では苦労とストレスの弊害ばかりを書いてきたが、ある程度のストレスは人間には必要であるという側面もある。
しかしこの「ある程度」は個々人によって異なるものなので一概には言えるものでもないし、他人が何か口を出せるものでもない。
おわりに
苦労を乗り越えることは素晴らしい。そして努力して勝ち取ったものはなににも変え難いものだ。しかし、ある人が苦労して成功したその足元には、無数の死体がある。
苦労しすぎて健康を壊してしまったり、死んでしまった人は数多くいる。
「苦労」「努力」はとても美しいものだが、同時にとてつもなく残酷なものなのだ。その残酷性を無視したこの慣用句は許しがたいという気持ちでこの記事を書いた。
もし、あなたが「つらい」と言って「苦労は買ってでもしろ」などという言葉を投げかけられたならば、逃げろ!
あなたの身体、健康、そして精神がなによりも一番大切なのだから。
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