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自分が自分の思う人間ではなかった話

 ここ最近、全てが停滞している。停滞している人間がやることは大なり小なり同じで、自らの乏しい過去を振り返るぐらいの行為や、無気力になるなりといったことに収束する。  その例に漏れず俺も過去の思い出と言う名のぬるま湯に浸かっていたのだが、そこで発見したのが6年前の俺の日記である。  今はもう使っていないオンボロスマホのメモ帳に書かれていたその日記は、何事も続かない俺の人生を象徴するかのごとく3ヶ月足らずで終わっていたのだが、完全に他人事としてその日記を鑑賞すると色々と思うとこ

    • 幸福のレベルを下げるのには幸福のレベルを上げる必要がある問題について

      よく世間一般で言われる言葉に「幸福の水準を下げれば幸せになれる」というものがある。 俺はこの言葉を基本的に嫌悪しているが、気持ちを排除して考えれば確かに一理ぐらいはある。 これは酸っぱいブドウを世俗的価値観に適用するということだ。 俺は「病気は気から」「気持ちは持ちよう」みたいな言葉をアレルギー並みに嫌っているが、なぜ嫌っているのかと考えると、これらの言葉が加害的に使われることが多いからだ。 今苦しんでいる人に対して前述の言葉が投げかけられることは多々あるわけだが、これは

      • 雑記 徘徊について

        ことしの4月、あまりにも精神状態が悪化しすぎて、もはや自分が何をやっているのかすらわからなくなった。 ふらふらと街中を徘徊して、ふとその状態に気がついて「ん……?何やってんだ……?」と考える。 しかし、よくわからない。全くわからない。どれぐらいわからないのかすらわからない。 20代なのに徘徊老人みたいになっている。 俺は「完全におかしくなったら入院しよう」と思った。 しかしながら、当然のように次の疑問が出てくる。 完全に頭がおかしくなった人間が、自分の頭のおかしさに気づ

        • 月一ぐらいで「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいる

          14歳ぐらいの頃、施設にぶち込まれたことがある。虐待された子どもが保護されるような場所だ。 なかなかひどいところ(歪曲表現)だったのだが、俺が1番嫌だったのが小説が読めないことだった。 というのも、その施設は18歳以下の子供しかいないので、娯楽室(みたいな名前だった気がするが定かではない)には漫画とファミコン(当時はすでにPS4が出ていた時代である)しかなかった。 俺は職員(ロリコンが多かった)に頼み込んで、ボロボロの小説を貸してもらった。 レパートリーがあまりにも少なく

        自分が自分の思う人間ではなかった話

        • 幸福のレベルを下げるのには幸福のレベルを上げる必要がある問題について

        • 雑記 徘徊について

        • 月一ぐらいで「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいる

          若いころの苦労は買ってでも「するな」 について

          「若い頃の苦労は買ってでもしろ!」 なにやら、親戚のおっさん/おばさんやら職場の上司やらに、わけ知り顔でそう助言(?)された経験がある人は多々いるのではないだろうか。しかしあえて私はこう言いたい。 「若い頃の苦労は買ってでも避けろ!」 「買ってでもしろ」は完全に嘘であり、誤りだ。 このような嘘くさい名言を打倒するため、この記事ではその根拠を示すこととしよう。 「若いころの苦労は買ってでもしろ」の理屈さて、なぜ嘘なのかを説明する前に「苦労は買ってでもしろ」と言う人は、な

          若いころの苦労は買ってでも「するな」 について

          ものごとへの理解を深めれば深まるほど何も断言できなくなる現象について

          何も言えない。 例えば、ある特定の出来事に遭遇しても、それに強くショックを受ける人と、たいして何も感じない人が存在するのはよく知られている。 これは高度な認知に関する問題で、様々な文献や書籍を漁っても特に決まった答えはないのだと考えているが、結論から言えばこの問題に対して俺は何も知らないので、断言できないということに尽きる。 一方で、この問題について深く考えることをしなかった時の方が、はるかに断言は簡単であったような気もする。 以上のことは「ある出来事へのストレス差反応

          ものごとへの理解を深めれば深まるほど何も断言できなくなる現象について

          「逃げ癖」という一度罹ると治らない「死に至る病」について

          逃げるは恥だが役に立つとは、一時期話題になった某漫画原作かつ、某新垣結衣、某星野源主演の某人気ドラマのタイトルにも使われたことがあるハンガリーのことわざだが、基本的に逃げ癖がついて良いことなどない。 「逃げ癖」はその名の通り、逃げる癖である。事前に記載しておくと、俺は逃げ癖罹患者である。 俺個人としては逃げ癖はもはや精神疾患レベルに悪質だと思っているし、重度の逃げ癖罹患者は高確率でなんらかの精神疾患を併存していると勝手に結論している(n=1)。 そのためこの記事の内容も

          「逃げ癖」という一度罹ると治らない「死に至る病」について

          「人生論に大して意味はない」という話

          人生論に意味はない。まず最初に、この文章を書くことに抵抗があることを記しておきたい。なぜならば「人生論に意味はない」と主張すること自体が人生論だからだ。つまり、この文章は最初からナンセンスなのだ。 さて、そういう結論に至ったわけなので「人生論に意味はない」ということについて長々と書く気力は、もはやこの文章で「まず最初に」と書き始めた時点から消失していたと言っても過言ではない。 それなのでタイトルの「人生論に意味はない」という趣旨の内容は読者諸君が各々日々感じていることから勝

          「人生論に大して意味はない」という話

          いつものように、精神科に行く。そして俺は負ける

          これは俺の大いなる敗北の物語だ。 精神科に行くことについて「敗北」と表現することによって傷つく人がいるのは理解できる。しかし俺の中だけのローカルルールによればそれは敗北に他ならない。もちろんこれは俺だけに適用される自己ルール(ハンターハンター的に言えば制約)なので、この記事を読んでいる人たちが精神科に行ったとしても全くもって敗北ではない。 これは俺だけで始まり、俺だけで終わる問題なのだ。 俺が精神科に行った(いや、連れて行かれた)のは中学2年生の事だった。 このような

          いつものように、精神科に行く。そして俺は負ける

          中学生の時に出会ったヤバいおっさんの話

          当時、俺は山岡家というラーメン屋にハマっていた。 山岡家を知らない人も多いだろう。いわゆる油ギトギト味濃い目麺硬めという早死三段活用の権化のようなラーメンを提供する店なのだが、ハマる人はとてつもなくハマる。例によって俺は半端なくハマってしまい、毎日札幌中心街の山岡家に通っていたのである。 いつものように母親がテーブルに置いていった1000円で山岡家を食べ終わり、さてどうしようかと店を出たところだった。突然、横っ腹に衝撃が走った。小汚いおっさんが俺にタックルをお見舞いしてき

          中学生の時に出会ったヤバいおっさんの話