因果関係的思考から自由になるために
ある小学生の男子が学校に行かなくなる。一般的にこれは困ったことだから、何とかしようと思う。そうなると普通、その不登校の「原因」を探し出そうとする。子どもから「原因」を聞き出そうとする人もある。このようなときに本人は、本当はなぜか自分でもはっきりとわからないのだが、何か原因を言わなくてはと思うので、「先生が怖い」とかなどという。実際、このようなときの本人の心の中は、自白さえすれば自由にしてやると刑事に言われて、偽の自白をするような感じではないだろうか。ところで、「原因」がわかれば何とかしたい、というので、すぐに「怖い先生」に忠告してみたりする。このような努力がすべて効果がないとわかると、「原因」が本人に求められ「怠けている」などと言われる。あるいは母親が過保護である、などということにもなる。
要するに、人々は早く「安心」したいのである。人々はじぶんの思考システムのなかの「原因→結果」を明らかにしたとたんに、その人は安心してしまうし、下手をすると、子どもとこわい先生はその役割に固定されてしまう。このようなことをして解決した例は少ない。
では、どうしたらいいのか。それは、通常の因果関係的思考から自由になることだ。
本人やその周辺の人々から収集される事実を組み立て、そこから因果的に把握することを放棄する。本人が学校へ行かなくなった現象の背景に、わたしたちも本人も理解できていない何かが存在している。それを明らかにしていくことによって、現象が進展し快方に向かうであろうと考える。
このような考えで本人に会うと、早く「原因」を探そうとする態度ではないので、本人は何を話してもよいという感じを受けることになる。思いがけないことを話したり、そのような聞く姿勢の態度に支えられ本人は自由に話ができるようになる。その際に「担任の先生が怖いから学校にいけない」というかもしれない。そのときは、それをすぐに「原因」として考えず「怖い先生」「若い男性像」というイメージが、本人にとって重要な役割を占めているというように考える。
このようにイメージに注目する態度で接していると、怖い先生の話はすぐに消えたり、反対に怖い男性像として父親が登場したりして、ますます膨らんでくるかもしれない。そのときに威力を持っているイメージがだんだん明かされていき、その意味がわかってくると、本人の考えや行動も変化しくる。イメージそのものも、変化して、肯定的なものに変わっていくこともある。
個人がそれぞれ違うので、絶対にこの方法が正しいわけじゃない。いろいろやってみる一つの引き出しとして知っていれば。
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