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オーパスワン#01/次代に継ぐ難しさ

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オーパスワンというワイン。
ロートシルトを知らない人でもペトリウスを知らない人でも、ロマネコンティとオーパスワンは知っています。
その個性的なボトルデザインを知らなくても、オーパスワンというアメリカのワインの名前は知っている。なんと凄い!知名度でしょうか?
もちろんオーパスワンは、きわめてカルフォルニア的ワインという訳でもないし、カルフォルニア最上のワインでもない。
しかし知名度は(日本での)ロマネコンティに匹敵します。

このオーパスワンというワイン。二人の男の人生の交差点から生まれました。今回はその話をしたい。

一人はロバート・モンダヴィ。
一人はフィリップ・ロスチャイルド。
時間軸で二人の軌跡・道を追ってみましょう。そして意志を継ぐことの難しさをなぞってみましょう。

ロバート・モンダヴィ(Robert Gerald Mondavi)は1913年6月18日生まれ。これは、第一次世界大戦が起こる前年、FRBがスタートし、アメリカドルの発行権が政府から連銀に移譲された年です。アメリカが旧きアメリカから今のアメリカになった年でもあります。
その年にロバート・モンダヴィは誕生しました。
彼が誕生したときモンダヴィ家はミネソタに暮らしていました。父は鉱山で働いていた。しかし1920年に禁酒法が施行されると、父はワイン用の葡萄を東部に運ぶ仕事に転業しました。これは相応の収入をモンダヴィ家にもたらしました。幼少から聡明だったロバートは、この財力を背景にスタンフォード大学へ入学しています。
そして1947年、ナパにあった老舗ワイナリーであるチャールズ・クルーグ・ワイナリーを、ロバートは父を説得して手に入れようとします。父の条件は弟ピーターが畑とワインの製造を担当すること。そしてロバートが販売と広報を担当することでした。こうしてモンダヴィ家のワイナリーが始まりました。

そして、フィリップ・ロスチャイルド。
フィリップ・ド・ロスチャイルド男爵(Le baron Philippe de Rothschild)は1902年4月13日。パリ・ロスチャルド家・分家の家系に生まれました。大英帝国が、泥沼だった南アフリカ戦争をようやく講和に持ち込んだ年です。ここを起点に、破竹の勢いで勢力を拡大してきた大英帝国は失速し始めます。時代は第一次世界大戦へ突き進んでしまいます。

パリ育ちだったフィリップがボルドーへ引越したのは、この第一次世界大戦の戦禍を逃れるためでした。そしてシャトー・ムートンの畑に出会いました。16歳の多感の時です。
シャトー・ムートンは、祖母テレーゼが所有する美しい城でした。フィリップはこれに魅了された。
「自分のものにしたい!」と熱望するフィリップの管理下にシャトー・ムートンが移ったのは、彼が20歳の時、1922年です。

この若き領主はパリとボルドーを頻繁に行き来しながら、シャトー・ムートンへ全身全霊を注ぎ、大改革を幾つも断行し、ビジネスとしてもワインとしても、素晴らしいものに育てていきました。
特に彼の「セカンドラベルを作る」という発想はユニークで、ボルドーの名門ワイナリーに新風を吹き込みました。
しかしまた暗雲が。。。第二次世界大戦が始まってしまいます。

容赦ないドイツ軍の侵攻を逃れて、フィリップは若き日と同じように、パリからボルドーへ逃れます。しかしそのボルドーをナチスは欲しがっていました。海軍港として最適だったからです。

容赦ないドイツ軍の侵略は、それほどの時を待たずボルドーへ達します。ボルドーに暮らすユダヤ人は、ナチスによって徹底的に蹂躙されます。その爪痕を辿るだけで一冊の本になってしまうほど悲惨な事件が、ボルドー中に溢れかえった。。
ユダヤ人であるロスチャイルド家は、悪の巣窟として徹底的にナチスに憎まれていました。その歯牙を逃れるべく、フィリップは国外へ逃れます。しかし妻・リリーはカトリックでした。彼女はヴィシー臨時政府と教会を信じてフランスへ残りました。そしてゲシュタポに捕らわれ強制収容所で亡くなってしまうのです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました