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パリのマルシェ歩き#44/マレの蚤の市

マレ、サン・タントワーヌ通りで開かれる蚤の市は、広報も定期的もない。いかにも"パリ的"だ。出会ったらいいね。買えたらいいね。売れたらいいね・・を通している。
もし出会えたら・・その僥倖に感謝しょう。でも必ず天気の良い日です。
通りに、雑然とスティールの骨枠と紙や布で仕切られた露店に、古着やアンティークが並ぶ。いかにも手作りの工芸品や不思議なコレクションや古本などが、オジヤのように不規則に並んでいるのだ。出店者はどうやらプロとアマチュアが混在していて、もちろん言葉は当たり前のようにフランス語だけ。でも・・例えば・・古いロートレックのポスターが無造作に置いてあって、ずいぶん昔のだなぁ~だと調べると・・リアルタイム・オリジナルだったりする。ホントだよ。それがサン・タントワーヌ通りで開かれる蚤の市の底力だ。
「やってないなぁ」と思いながらリヴォリ通りへ向かって歩くと、途中からポロポロと出てたりするから、それはそれで楽しいと思う
僕らはサンポール通りの入口にあるAu Bouquet Saint Paul(85 Rue Saint-Antoine, 75004 Paris)にいた。此処でお茶してた。
https://aubouquetsaintpaul.fr/fr
このあとヴィラージュ・サン・ポールLe Village Saint-Paul(Rue Saint-Paul, 75004 Paris)を歩くつもりで、その前の脚休めだ。
https://levillagesaintpaul.com/
「マレ地区はオスマン男爵のパリ大改造計画には含まれなかった。17世紀18世紀のまま残されたんだ。おかげでこうやって古いパリを僕らは此処で偲べるんだよ」
「どうして?マレって、ナポレオン三世が生活していたルーブル美術館のすぐ傍じゃない? ナポレオン三世は、自分の住んでいた周辺からパリの大改造を始めてるんでしょ? なぜマレはされなかったの?」
「彼の自宅で有るルーブルとの間にはサンポール・サンルイ教会Paroisse Saint-Paul Saint-Louisがある。これが最大の境界線だ。それと実はサンポール・サンルイ教会の西側は貴族たちの屋敷が集まっていたんだよ。彼らは此処から宮廷に赴いていたんだ。さすがのオスマンも、その利権には触れなかった。だからまんまと逃げ切った訳だ」
「なるほどねぇ」
「でもこの地区にいた金持ちは、時代の激動に耐えられなかった。19世紀の終わりから、あれよあれよと貧乏人が巣食う街になってしまったんだ。NYCのハーレムで話したよな」
「オランダからの移民たちが作った町だという話」
「ん。あの街はオランダ商人が作った。名前はオランダの都市ハールレムHaarlemから取ってる」
「それ、はじめて聞いたわ」
「アムステルダムの西側にある町だ。チューリップの町だ」
「行ったの?」
「ん。地元のビールが滅法美味かった。上面発酵ビールだ。Jopen Breweryが美味かった」
「ほんとに色々な所へ行って、色々なお酒を飲んでるわね」嫁さんが呆れた顔をした。
「19世紀半ばまで、ハーレムは小奇麗な小金持ちの街だった。それが南北戦争が終わると、黒人という労働力が流動化した。アメリカ東北部に固まっていた産業革命の申し子みたいな工場地帯は、流動化した労働力が喉から手が出るほど欲しかったんだ。それがアメリカの移民政策だったし、南部で安定生活していた黒人たちを奴隷から解放する政策だったんだよ。おかげで、南北戦争終了後数十年で南部の奴隷たちは北部へ拡散したんだ。ハーレムは彼らを受け入れた」
「ふうん、そうなんだ」
「オランダ人社会は、宗教的な閉鎖がない。人種にも優劣を持っていない。だから・・だろうな」
「でも増えすぎた黒人たちのために、オランダ人たちは棲むところを替えたわけね」
「ん。1920年代には、ハーレムは完全な黒人社会になってる。マレもね。ベルエポックBelle Époqueの時代。パリという華やかな街の影として、マレは貧しい人々の営む家内工場が乱雑する街になったんだ。此処でも貴族たちの町から貧乏人の街に替わるに掛った時間は半世紀ほどだ」
第一次世界大戦後、 パリ市は戦争からの痛手を回復するために公共投資を試みた。その時に市内17か所を改造指定地区にした。マレ地区は、いまサンポール通りからボードエ広場まで。セーヌ川からフランソワミロン通り、サンタント
ワーヌ通りまでだった。
1941年にヴィシー政権がこれを強行した。このときに地元のユダヤ人たちが泣きながら一掃されたんだ。このときにヴィラージュ・サン・ポールLe Village Saint-Pauは解体の寸前まで行ったんだ。でも、第二次世界大戦がね。改造指定なんぞと言ってられなくなったんだよ」
「ふうん、それで解体されなかったわけね」
「ん。そのうえ戦後はアンドレ・マルローが政治家として出てきたから。マレ地区は彼によって「パリ歴史保護地区」にされたんだよ。1962年だ」
「そうなんだ、マルローが言い出さなければ、いま私たちは此処を見ることはできなかったわけね」
「ん。Fluctuat nec mergiturだよ。これがパリらしさだ」


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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました