見出し画像

ボージョレー、主たる販売先としてのリヨンそしてパリ/beaujoLais nOuVEauに秘められたLOVE#09


画像2

ブルゴーニュ豪胆公の英断は、ボージョレーにとって「対岸の火事」でしかなかった。何の影響もなかった。ボージョレーはボージュ卿の男爵領であり、その自治権はフランス王から与えられており、ブルゴーニュ公国からの政治的・経済的影響は、殆んどなかったからです。たしかにボージョレーは荘園としては小さなものでしたが、独立し、可能な限り自給自足する経済構造になっていました。また、すぐそばにリヨン城塞都市が有ったので、農家は、そこへ生産物を運んで商売をしていたのです。
そこで使用されていたのはドゥニエ銀貨でした。物々交換だけではなかった。

この”物々交換ではない”ということが、実は重要な意味を持っているのです。物々交換で得た対価物は、いかに工夫しようとも蓄えておくのには限界が有ります。貨幣は、腐らないし痛まないのです。ボージョレーの人々は余剰生産物を、せっせと城塞都市リヨンへ運び、それを銀貨に替えた。ボージョ卿も大いにそれを奨励しました。
このドゥニエ銀貨というものですが、755年にカロリング朝の創始者ピピン王が鋳造した貨幣です。

西ローマ帝国が瓦解したのち、彼らが使っていたソリドゥス金貨やアルゲンテウス銀貨、そして銀を混ぜた青銅貨であるフォリスなどは、大都市以外では殆んど流通しなくなっており、フランク王国における経済の方法は、物々交換に戻っていたのです。これは間違いなくフランク王国による中央集権管理を阻害する。ピピン王はそう考えて、カロリング朝創始後、すぐに国内で流通する貨幣の鋳造を始めたのです。そして我が領土の貨幣的統一を図ったのです。彼はローマの貨幣単位の構造を真似して、1リーブルが20ソル。20ソルが240ドゥニエとした。しかし発行したのはドゥニエ銀貨だけでした。


ボージョレーの人々が商売をした城塞都市リヨンは、大司教を中心におく巨大宗教都市です。中心になる産業は絹織物でした。古くから市の立つ都市として、地方から沢山の商人たちが集まる街として大いに栄えていました。
城塞内には4つの大市が有り、そこでは早くから現金取引だけでなく、信用取引が成立していました。大司教の庇護のもと、手形が発行されていたのです。そしてこの街に暮らす人々は、労働の対価を貨幣で受け取っていました。

城塞都市リヨンは、市内に入る商人に対して入城税を20%取っていました。これが街の収益でした。リヨンで商売がしたい周辺の小農家にとって、この20%はかなりの負担です。そのために城塞の外に幾つもの飲食をする場所が自然発生的に生まれました。農家はそこで商売をする店に、農作物や肉製品、ワインを運びました。そして夕方になると、人々は城門を出て、三々五々とそうした店へ出かけるようになりました。これが一つの文化を生み出していきました。

当時、ワインは醸造されると、すべて樽に詰められて売られていました。ガラスの瓶は、まだ殆んど流通していません。ましてコルクなんぞ未だスペイン人以外は知らなかった。その大きな樽に詰められたワインを陸路で運ぶのは、どうしても距離的な限界があります。そのため、マーケットは自ずから限られていたのです。

画像1


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました