サンテミリオンの自律性/サンテミリオン村歩き#05
https://www.youtube.com/watch?v=dtU3XpOzc_o
第二次世界大戦中、ボルドーがナチスドイツの手に墜ちたとき、ナチはこの地に彼らの海軍基地・潜水艦基地を作った。ガロンヌ川沿いには、いまでもその時の潜水艦基地が残されている。
ボルドーを訪ねたら是非とも行くべき負の遺跡だ。・・ボルドーで出会うのがワインだけというのは、あまりにも心貧しい。この地の、時代の変転を通して、ぜひとも西欧史に触れることを僕は強くお勧めしたい。
https://www.youtube.com/watch?v=92pjm2jnhos
さて、サンテミリオンだが。此処はナチと戦うレジスタンス運動の戦士たちの砦だった。
オランダ人・入植者の干拓によって作られたボルドーのワイン地帯には地下倉庫がない。だからナチスと戦うためのレジスタンスの拠点を地下に作れなかった。なのでレジスタンスたちは、40km東へ離れたサンテミリオンに拠点を置いたのである。ローマ時代の石切り場/それを利用したサンテミリオンんの生産者が持つ地下ワイン蔵に潜んで、彼らはレジスタンスを続けたという。
サンテミリオンの生産者を訪ねて、ケーブを案内してもらうと、オーナーから必ずこの話が出る。
「ここに俺んチのオヤジや爺いさんが、みんなと潜伏してナチス・ドイツと戦ったんだ」と。
そんな話を聞いていると、レジスタンスが彼らのプライドに直結していることを実感する。
ボルドーの豪商たちが(金で買った騎士の称号をもつ連中が)いかに自分たちに利のある交渉をナチスとするか汲々としていたとき、「ここは我が地」と叫び、ナチスと戦った人々がサンテミリオンへ"梁山泊"を移し、此処を拠点としたという話は、極めてサンテミリオンらしい。とてもこの村らしい象徴的で面白い事件だと僕は思う。
ワインの生産地としてのサンテミリオンを見ると、その歴史はボルドーに肩を並べられるほど古いのだが、両者の関係を見ると、カナダと米合衆国関係に似ているような気がする。
ジロンド川対岸のグラーブは、早くからボルドーネゴシアンの支配下に入った。しかしカスティオンやガイヤック/サンテミリオンは、ボルドー・ネゴシアンの支配下に入らなかった。大きな理由は地域そのものが教会の管理下にあったためだろう。そのためサンテミリオンは、いまでも昔ながらの弱小な生産者が群雄割拠するままでいる。年間生産量2000本程度の農家が、今でも無数にある。
たしかに、ボルドーにはワイン生産者が無数にある。しかし実は、大半の小農家は少数のネゴシアンの掌の上に有る。実態は寡占独占状態なのだ。
なぜボルドーワインが、一部のネゴシアンに寡占独占されているのか?ボトリング設備を持つという壁が中々越えられないからだ。小さい農家は、畑が有れば葡萄の栽培はできる。しかし醸造するには設備がいる。ボトリングはもっと大きな設備が必要になる。小農家では越えられない壁だ。そのためにどうしても大手ネゴシアンの管理下に入ってしまうのだ。
サンテミリオンの場合、この壁を組合方式という方法で解決した。
サンテミリオンの農家は葡萄の収穫が終わると、それを組合に持ち込む。あるいは、少し大きな農家は醸造までは自分のところで行い、ボトリングは組合に持ち込む。そして自分のラベルを貼る。
こうした組合方式は自然発生的に生まれたが、公式な組織として作られたのは1931年だった。
現在では、たくさんの農家から葡萄を持ち込み、これをミックスして醸造し、ボトリングして販売する醸造組合もある。
もちろん、現代にはサンテミリオンのワインを中心に取り扱うネゴシアンもあるし、ボルドーのネゴシアンの中にはサンテミリオン・ワインを取り扱うところも多々ある。しかし原則的にはサンテミリオン・ワインは、今でも生産者が直接店舗に・消費者に・卸業者に販売する形式を取っている。ボルドーにはありえない形式である。
村に幾つかあるワイン酒販店も、訪ねると「これは我々が直接農家から買ったものだ」を連発するのは、彼らがプライドとして自律自尊を持っているからだろう。
こうしたサンテミリオンの象徴が、9月に年行事として開かれる「収穫公示祭Vindantes 」である。
収穫公示祭は、12世紀後半に作られた自治組織ジュラード(参事会)が取り仕切る祭りだったが、フランス革命時代、パリからやってきた革命政府らによって禁止されてしまった。しかし第二次大戦後を経て、ドイツナチスへのレジスタンスがきっかけとなって、自治意識が再度強く開き、1948年から再開されてされている。収穫公示祭Vindantes は、今ではサンテミリオン一番の大きな祭りになっている。