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ワインと地中海#23/エジプトのワイン02

「古代エジプトでワインは『イレプirp』と呼ばれていた。エジプト王朝はアレクサンドロス大王に征服されるまで31の王朝を重ねるが、イレプirpという名前は後代まで使い続けられている」
「今は?」
「現代エジプト・アラビア語方言はnabiitナビット。アラビア語だとnoun」
「イレプとはずいぶん違うわね」
「アレクサンドロス以降。エジプトの覇権は荒れたからな、言語も荒れる。しかし古王朝時代に使用されたヒエログラフはイレプirpで通されている。
ワインは・・最初はフェニキア人から買っていた。エジプトに葡萄は育たないからだ。しかし国産化を目指した王らは、かなり早い時期からナイルデルタで小規模な葡萄の栽培を始めているんだ。BC3000年ころ最初期の統一王朝のころだ。古王国時代に(B2700~)なると、次第に大規模化して王だけではなく高級官僚たちも作るようになってきている。おかげで、たくさんのワインについて書かれた壁画/ヒエログラフが出てくるようになるんだ。いずれも精緻な記録で、その記録から僕らは古代のワイン製法について相当細かい部分まで知ることが出来る」
「情報マニアだったわけね」
「ん。製法はおそらく南レヴァントのものを踏襲したものだったろう。壁画を見ると、葡萄は先ず大きな樽に入れられる。それを大きな柵に掴まりながら圧し潰す様子が描かれている。南レヴァントに残されている遺跡も同じ形態だから、おそらく同じ方法を南レヴァント側も行っていたに違いない。そして絞り粕を大きな袋に入れて絞り出している様子が描かれている。」
「全部、絵として残っているの?」

「ん。鮮明にね。色彩が添えられているから葡萄汁が黒いことが判るんだ。葡萄の汁は黒くない。それが黒い色で描かれるということは、樽の中で既に発酵が始まっているということだ。果皮の色が樽内で圧し潰されて染み出ている。絵によっては絞り出された果汁が発酵して泡だって溢れているものもある。とてもリアルだ」
「発酵は別の樽でされるんでしょ?二次発酵?」
「ん。工程は現代と同じだ。発酵は熱を発するし、炭酸ガスを大量に出す。樽から抽出した液は、大きな土器アンフォラに収められて発酵が終わるまで、簡単な栓をしただけで安置されるんだ。ところがここにエジプトワインの特徴がある。レヴァントやもっと北の方にある醸造所では、二次発酵の樽は地下に埋めらて冷却される。エジプトは埋めないんだ。ということは発熱は50℃くらいになるはずだ。二次発酵時の発熱は、ワインの風味に深刻な影響を与える。だから嫌うはずなんだが・・エジプトは発熱を放置している。・・おそらくだが、雑菌処理だ。エジプトは低緯度帯だから雑菌を殺すためだろうな」
「ということは、フェニキア人が運んだワインとはかなりの差が有った・かもしれないわけね」
「ん。おそらくな。それと・・高貴な人々が亡くなった場合は、ワインを副葬品として埋蔵するのが定番になってた。だから5000年近く経っているが実物にもお目にかかれる。ありがたいことだ。その埋葬品を見ると壁画と同じように、ワインは尖底の壺に入れられて蝋によって封印されて納められている。後代になると、それが少しずつ精緻化されて・・例えば、ギザGizaにあるマスタバ墓(第4王朝クフ王治世時)ではイレプirpだけが壺に納められて埋葬されているんだが、第6王朝テティ王治世の官僚ケンティカの墓では、複数のイレプirpが埋葬されるようになってるんだ」
「複数の?」
「ん。さっき話したツタンカーメンの墓みたいにな。製造年月日/製造場所/製造者に仕訳されて納められている。官僚ケンティカの墓に納められたワインには『北のワイン』ナイルデルタ産『アベシュ鉢のワイン』『スヌ・ワイン』デルタ東部シレsile『ハム・ワイン』デルタ西部マレオティス湖付近『イメト・ワイン』デルタ北部ブトbutoと、デルタ生産地の詳細が載っている。新王国時代になると、製造場所の名前がかなり判るようになった。
それと第18王朝あたりから、生産地の幅が大きく広がるんだ。栽培技術が進化したおかげで西部砂漠の中に有るオアシスでも作られるようになって、ダックラ・オアシスDakhla Oasisなどの名前が散見されるようになってる。
もちろんフェニキア人が運んだ南レヴァント産のワインは格別だ。こうしたワインは副葬されると「シリア人のもの」と記載されている」

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました