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バスク/AOCワイン・イルレギー02

今回の旅行だが、大きな目的の一つはバスク地方唯一のAOCワイン・イルレギーIrouleguyを堪能することだった。
イレルギーは山バスクの中に潜む小さな村だ。行ってみたいなと思っていた。サン・ジャン・ピエ・ド・ポーより車で10分程度のところだと聞いていた。しかし季節が季節なので、同村を訪ねることは最初から諦めていた。何しろ冬は雪深いところである。とくに脚がこんな具合じゃ、とってもムリだと思ったのだ。ところが、いざフレンチ・バスク/バイヨンヌに入ってみると雪は降っていない。寒いし霧雨が街を覆っていたが、雪模様ではない。

こいつは、もしかするとイケるかな?と思って、イレルギー村の天気を調べてみた。曇り・時折小雨。んんん。これならチャレンジしてみる価値はあるかも・・そう思った。

サン・ジャン・ピエ・ド・ポーまではバイヨンヌから列車が一時間に一本程度だがある。 これに乗ってみようと思った。ピエ・ド・ポーからの道は、向こうにいってから考えよう・・と。
というわけで、バイヨンヌの駅前で遅い朝食を済ませた後、サン・ジャン・ピエ・ド・ポー行きの列車に乗った。1両編成のこじんまりした車両である。乗客は我々を含めても10人はいない。
列車は川に沿って、ひたすら山を登る。川の流れは速く清涼だ。川の向こう側に細い道が山肌に沿って有った。時折、その道をリュック姿の人が歩いていた。巡礼者なんだろうな。

サン・ジャン・ピエ・ド・ポーは巡礼者の村だ。 フランス側から聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラを訪ねる人々は、此処を中継点としてピレネー越えをする。山深くうねうねと続く道で、標高1057mのイバニャータ峠を抜けて、聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラを目指して800kmの巡礼路を歩む。徒歩でおよそ一月の道程だ。
村にはこうした巡礼のための宿が無数にあった。中には帆立貝の形をした看板の宿も有った。帆立貝が巡礼者のシンボルである。サン・ジャン・ピエ・ド・ポーでそれを見ると、やはりなんとも感慨深い。

駅前にタクシーの姿はない。んんん。やはりイレルギー村まで行くのはムリか・・ま。それでもピエ・ド・ポー村までは歩いてみようと、グーグルマップを頼りに、長い登り坂を歩いた。僕の脚で一時間ほど歩くと、目の前に城壁が見えた。村は今でも城壁に囲まれている。 この城壁を作ったのはナバーラ王サンチョ7世だった。1200年代初頭のことだ。 

もともとこの地にはローマ人が作った街道が通っていた。ピレネー越えの道として古くから利用されていたのである。ローマ人が去った後も街道は活き続けた。この地に聖エウラリアEulalie deMeridaの教会を作ったのはフランク人だった。彼らの後を継いでナバーラ王国の御世に入ると、流通の要所としてだけではなく聖地へ巡礼の中継点として大いに栄えるようになったのである。

駅からの坂道を行くと、城砦への入り口が見える。それは宿場が並ぶ通りの入り口でもある。入ってみると、見事に通りの両サイドに宿場が並んでいた。しかしオフシーズンだからだろう、どこも閑散としていた。
「レストラン、やってないんじゃない?」嫁さんが言った。
娘がタブレットで調べながら営業していそうなところを探した。
たしかに片っ端にやってない。巡礼者もポツポツとしかいない。こりゃイレルギーの村へ行くどこじゃないな・・と内心思った。

それにしても驚いたのは、時折見かける巡礼者の中に、明らかに韓国の人が多かったことだ。欧州人らしい巡礼者は壮齢のカップルが多かった。比して韓国の人はすべて若者だった。数名のグループである。全員の荷物あるいは着ているものに、帆立貝を模したペンダントが付いていた。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました