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日本国名の由来を追って#03/東海の沖合に巨大な島が存在し、そこにも幾つかの集落が有ることは早くから知られていた

中国本土にあった王朝は、何れも一貫して南海の地の人々/国々を「倭」と呼びました。支配者の大半が中国から流入して作られた朝鮮半島の国々は、早くから文字として漢字を使っていたので、対外的には「倭」と自らの国を称していた。それもあって中国内王朝が指す「倭」の殆どが朝鮮半島に有った国々を指していました。
東海の沖合に巨大な島が存在し、そこにも幾つかの集落が有ることは早くから知られていたと考えられます。もしかすると漁労を介在した交易が有ったかもしれない。
これらの国々について言及する史書は魏書です。
魏書 卷30 東夷伝 倭人の中に

倭人在帶方東南大海之中 依山?為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。」
とある。所謂魏志倭人伝です。

この東海の果てに有る島を、魏の使者が訪ねたかどうかは聊か怪しいのですが(記述に距離的地理的矛盾が多すぎる)風聞だとしても、中国側の正史に、日本列島に存在する国々が有ると記されたのは、これが最初です。
そして魏書はこう書く。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。」

女王・卑弥呼の名前が登場します。
・・余談ですが、卑弥呼が個人名であると即断するのは早計です。YAMATOの国では長にヒコ(彦)の尊称を付けた。つまりヒミコは"ヒ女コ"の可能性が高い。"女性のヒコ"という意味です。
このヒミコの統治する国が「邪馬壹國」です。引用しましょう。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。」

ここに初めてYAMATOに近似する名前が登場するわけです。

後漢書 卷85の東夷列傳第75にも"卑彌呼"という名前は登場する。
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
しかし、このとおりYAMATOの名前は出てきません。
後漢書 東夷伝にある、永初元年(107年)倭国の朝見ですが、倭王として帥升が記されていますが、これも自らをYAMATOの王とは称していません。
中国側の正史にYAMATOに近似した名前が出るのは、これが最初で最後となるのです。

追記ですが・・
梁書 卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭
隋書 卷81 列傳第46 東夷傳 倭國
北史 卷94 列傳第82 倭國
などはすべて、この魏書の中の東夷伝倭人を引用したものなのでもその名を挙げるだけにしましょう。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました