葛西城東まぼろし散歩#05/北砂町02
五円玉公園の横を抜けて、大島の旧い町を歩いた。丸八橋北詰から左折して橋を渡った。左横に大島稲荷がある。
「大きなところね」橋を渡りながら嫁さんが言った。
「大島神社だ。伏見稲荷大社の分社だったな。たしか」
「千本鳥居のあるところ?行ったわね」
「ああ、お稲荷さんの総本宮だ」
「おもかる石でしょ?持ち上がらなかった」
「持ち上がるわきゃない。石灯籠だ」
「こちらにもあるのかしら?」
「どうかな・・」
丸八橋は典型的な「江東区の橋」だ。川が地盤沈下を続けたため、どんどんとコンモリ丘になっている。
「あら・・砂町だわ」
「ん。砂町だ」
「え~こんなに近いの??大島から」
嫁さんは結婚以前は亀戸に住んでいた。友達が砂町にも居て、よく丸八通りを使っていたそうだ。懐かしそうにその頃のことを話していた。20代の頃だな。・・考えてみりゃ、お神酒徳利になって40年。そういや嫁さんも20代のころは有った。その頃の砂町の話をし始めて止まらなくなったから、砂村新左エ門の話はしなかった。砂村→砂町は、相模国三浦郡から来た砂村新左衛門が由来だ。
お江戸が開城して半世紀ほど経った頃、今の北砂と東砂あたりに宝六島というのがあった。海に面した中州だったようだ。砂村新左衛門はこれを開墾し、これを砂村新田とした。
「前はもっと小さな町工場や畑が有ったけど・・ぜんぶビルになっちゃったわね~」
「東砂には畑が有ったな。オフクロの兄貴が住んでて遊びに行ったら隣が畑だった。
この辺りは、隅田川の糞尿がよく手に入ったから、肥しには困らなかったんだ。こっから肥桶を担いで取りに行ったんだ」
「畑と言っても土は他から持ってきたモノですものね。人糞は大事だったのねぇ」
「当時、長屋の人糞は有料だった。差配が管理していてね。店子にはその金は回らなかったんだ。
店中の 尻で大屋は 餅をつき、って。
ただ、大阪では大便は大家。小便は店子だったらしい」
「もういいわ、その話」
曲亭馬琴の『羇旅漫録』の中にこうある。
「京の家々、厠の前に小便擔担桶ありて、女もそれへ小便をする。故に、富家の女房も小便は悉く立て居てするなり。但、良賤とも紙を用ず。妓女ばかりふところ紙をもちて便所へゆくなり。月々六斎ほどづつこの小便桶を汲みに来るなり。或は供二、三人つれたる女、道ばたの小便たごへ、立ちながら尻の方をむけて、小便をするに、恥るいろなく、笑ふ人なし」
「・・東京じゃ無かったようだが、京都では桶を担いでやってきて、野菜と交換に小便を持ってったそうだ。
小便が 野菜と化ける 京の町、ってね」
「もういいってば」