ピノノワールとガメイは十字軍の戦利品だった/beaujoLais nOuVEauに秘められたLOVE#08
十字軍遠征の最大目的は、聖地エルサレム奪還という名目の上で行われる略奪だった。戦利品の一番人気は金銀宝石でしたが、二番目はイエス・キリスト関連の遺品だったのです。とりあえずエルサレム奪還だったので、キリスト生誕の地へ出かけたので、彼に関する様々なものを略奪者たちは欲しがりました。おかげで、色々のものが跋扈した。キリストを刺した槍。その血を受けた杯。キリストを包んだ布・・等々。なんでも有りで、紛い物・デッチあげモノが登場しました。
云ってみれば、ヨーロッパの西の山深いところからやってきた田舎者集団ですからね。コンスタンチノーブルやエルサレムの商人たちに騙されて、彼らは色々怪しげなものを買わされているのです。きっとこんな会話が飛び交っていたのではないか?そんな想像をしてしまいます。
「どうですか?これ。キリストの頭蓋骨ですよ。」とか、言われて。
「そうか!それはすごい!・・でも、ずいぶん小っちゃくないか?」
「え。そうですか。でも、まあ。子供の時の頭蓋骨ですから。」とか言われて。ころころと言いくるめられて色々買わされて、それを田舎に「どうだ!これこそ聖遺物だ」と持ち帰っていく。きっとそんな光景が彼処で繰り広げられたに違いないと思います。
その聖遺物の中で、人気が有ったモノの一つが葡萄の木です。ゲッセマネの葡萄の木です。 イエスは最後の晩餐をマルコの家で行っています。その時に食卓に出たワインは、マルコの母が贖ってきたものです。ゲッセマネの畑に有った葡萄の木から醸造されたものではないかと云われています。当時すでに、ゲッセマネの畑にはオリーブの木しかありませんでした。なので、これこそ「ゲッセマネの葡萄の木」というのがヤマのように出回ったのではないでしょうか?
二回十字軍は、ブルゴーニュ公国が中心になって実行されました。その遠征に参加した同地のシトー派の教会がピノ・ノワールを「これぞ最後の晩餐の葡萄」と持ち帰っていたようです。正式な資料は残っていませんが、この時期からブルゴーニュの教会は、地元種(ローマ人がもちこんだ寒冷地適正種アロブロジカAllobrogicaの派生種)ではなく、ピノ・ノワールを栽培するようになっています。
しかし、ピノ・ノワールは変性種ができやすく、取り扱いの難しい難物な葡萄なので、農家は今まで通りに地元種を育てていました。
ところがこの十字軍の遠征には、ボージョ卿の男爵領にあったガメイ村の領主セニョール・ドゥ・メも参加していたのです。彼もまた戦利品として、葡萄の木を持ち帰ってきました。この葡萄は植えてみると生命力が強く、一般的に植えられていた地元種に対して三倍以上の収穫量が有りました。実は、まったく瓢箪から駒という話だったのです。
葡萄の栽培は、単位面積あたりの利益率が極めて高い農産物です。どんな農作物を植えるよりも、葡萄を植えるほうが儲かります。だから農家は挙って葡萄を育てる。その収穫量が三倍になって、尚且つ冷害にも強いわけだからセニョール・ドゥ・メが持ち帰った葡萄を、ボージョレーの農家はみんなが植えるようになりました。
良いものは瞬く間に広がります。ブルゴーニュの葡萄農家も、このセニョール・ドゥ・メの持ち帰った葡萄の木を手に入れると、次々と植え替えてしまいました。そしてその葡萄を、ガメイ村から来た葡萄なので、いつの間にか「ガメイ」と呼ぶようになったのです。こうやって、ほぼ200年あまりで、ブルゴーニュもボージョレーも、農家が育てる葡萄は、大半がガメイになってしまいました。
前述したようにピノ・ノワールは、変性種ができやすく、取り扱いの難しい葡萄です。しかし注意深く育てられ、作られたワインの品性は、ガメイなぞ足元にも及ばないものになります。なので、修道院の中で手間暇かけられて作られることは有っても、普通の農家としては手を出したくない葡萄でした。その農家の都合をひっくり返したのがブルゴーニュ豪胆公でした。
彼は、自分の領地の中でガメイを植えることを禁止したのです。そして、すべての畑で植える葡萄の木はピノ・ノワールにせよと命じた。結果、ブルゴーニュからガメイは姿を消しました。ガメイはボージョレー地方だけで植えられる葡萄になってしまったのです。