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オーパスワン#02/次代に継ぐ難しさ

戦争特需で沸き返るアメリカで、モンダヴィ一家が経営するチャールズ・クルーグ・ワイナリーは、着実に伸びていきました。しかしロバートは不満だった。チャールズ・クルーグ・ワイナリーは安ワインだけを作るワイナリーだったからです。彼は高品質のワインを作りたかった。たしかにアメリカのワインマーケットは安いワインが占めていた。民衆が望んでいたのは、安価に酔っぱらえる酒でした。

ロバートは、スタンフォード大学で経営学を専攻していました。したがって「1ドルのワインを100本売るより、100ドルのワインを1本売る方が、売り易く利益が大きいこと」を知っていた。彼は安いワインを大量生産することの経営的限界を謳い続けました。そのことで弟ピーターと深い確執が生まれてしまいます。父の死後、母が弟ピーター側に回ったことで、二人の骨肉の争いは血みどろのものになりました。
そして追い出されるように、ロバートは独立します。彼がロバート・モンダヴィ・ワイナリーを設立したのは1966年、52才の時です。
ロバート・モンダヴィ・ワイナリーは、最初から高品質ワインの製造だけを目指した。そしてこの戦略は思惑通り大成功を納めます。その後を追って高品質のワインを製造するワイナリーが次から次に登場し、ついには「パリスの審判」事件の土壌を生み出すことになりました。

比してフランスは。。ボルドーの葡萄畑は、第二次世界大戦とフィロキセラ禍によって荒廃し尽くされていました。
戦後、フィリップ・ド・ロスチャイルド男爵がシャトー・ムートンへ戻ったとき。彼の畑もその例外ではなかった。
シャトーの中も荒らされていた。彼を逮捕に来たゲシュタポが、彼のいないことを知ると、腹立ちまぎれに彼の肖像画を撃ちまくったり、高価な調度類を大量に持ち出していました。畑も城も酷い状態になっていたのです。
その荒れ果てた様子に彼が呆然としているとき、執事の一人が、ある壁の前に彼を案内しました。そして壁を壊し始めた。
壁の中から大量のムートンワインが出てきたのです。
「あなた様がお出かけになった後、私たちはこの壁を作って、ゲシュタポからあなた様のワインをお守りしました。」

事実上破産状態で最愛の妻まで失って、挫けそうだったフィリップは、その執事の言葉に感動すると共に一念発起しました。
彼は一族を回り、資金繰りをつけると、荒廃した畑の再生に尽力を尽くしました。そして同時にボルドー左岸にある大手シャトーの再起を目指し、ボルドーワインのために超人的な活躍をしたのです。
思うのですが・・・その努力が、彼をボルドー以外のワインに目を向けさせるきっかけになっていったのではないでしょうか

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました