悠久のローヌ河を見つめて03/ヴィラ フロレンティーン
件(くだん)のファンダーが用意してくれたホテルは、旧市内にあるヴィラ フロレンティーンVilla Florentineという所だった。中世の修道院を改装して作られたと云うホテルだ。小高い丘の上に有った。
そのレストランで彼とディナーを共にした。
彼が選んだワインは、ジュラ/シャトー・シャロンとシャトーヌフ・デパプ/ヴァンサン・アヴリルだった。
「ローヌ下りはどうだった?」彼が言った。
「山あいばかりで川筋は殆ど見えなかったよ。」
「列車だとな、ショートカット出来る所は可能な限りショートカットするからな。車ならローヌ川に沿って走る道を通るから川の姿が楽しめるんだが・・しかしまあ、車であの谷間を抜ける好きものはそうはいない。酷い遠回りだからな。」
アルプスにぶつかると欧州の列車網は極端に過疎になる。そしてそれより以東は数えるほどしかない。黒海の北側から小アジアに懸かる地域に鉄道は殆どない。欧州はこの地域が鉄道によって豊かになることを望まなかったのだ。貧しい地域のまま放置したのだ。
城塞都市リヨンは、二つの川筋が重なる所だ。ひとつは北からのソーヌ川。そしてもうひとつが東からのローヌ川である。リヨンの街は、この二つのロジスティックルートのおかげで、古くから栄えた。街は先ずソーヌ川とローヌ川が繋がる南東部分に出来上がり、次第に大きくなって二つの川筋を呑みこんだ。大きな城壁に囲まれて司教座として大いに栄えた。北のランスの大市場に次いで、南に出来た最大の大市場を孕む街だった。
市場は最初物々交換の場だったが、司教が貨幣を発行しこれを保証すると、城塞都市内の取引は"腐らない/痛まない"硬貨を使用するようになった。同時に"手形"が発行され、信用取引が行われるようになった。
実は今でも、フランスにおける銀行業務/金融業務の拠点は、この街リヨンだ。大抵歴史は、大きくは変わらないまま続くものだ。
「ふたつの川の繋がる所に立って見ると、すぐに判るのはソーヌ川のほうが太いことなんだ。」ファンダーがグラスを片手に話し続けた。「ローヌ川のほうが細い。なのにローマ人は、細い川のほうを"我らが道"ローヌ川と呼んだんだ。どうしてだと思う? あの険しい回廊をわざわざ選んで進んだんだぜ。どうしてだと思う? もちろんアルプスの山塊に眠る錫鉱が目当てさ。たしかに穏やかなソーヌ川も北上したが、ほとんどのローマ人は険しいローヌ川を遡ったんだよ。より大きい利を求めてな。今の俺たちと同じさ。いつの世でも儲かることが、神の愛でし事なんだ。」
ロダヌス川flumen Rhodanusは、ローマ人に古くから知られていた。地中海に注ぐ直前に、ローヌ川はアルルのすぐ下で二つに別れる。東側がグラン・ローヌ、西側がプティ・ローヌと呼ばれている。三角州の地帯をローマ人はカマルグCamargueと呼んでいた。カマルクと言えば、フランス人は「白い馬」と「塩」そして「稲」を連想するそうだ。美しい湖水地帯である。早くからこの地域を自らのものにしていたローマ人も、塩湖を利用して塩田を築き、塩を生産していた。所謂プロバンス(属州)の始まりは後述するがもう少し西、もう少し後代からである。カマルグは帝国の一部と見られていたようだ。
ローマ人が錫を求めて、この川を遡上し始めた時、ローマ人は既にこの川を「ロダヌス川」と呼んでいた。そう考えてみると・・たしかに彼が言う通り、リヨンで二つに分かれる川の細いほうをわざわざその延長で「ロダヌス川」としたのは、それなりに理由が有ったはずだ。・・理由はやはり交易物の嵩だろう。物々交換を終えて戻る船の成果が川の名前の違いに出たに違いない。僕はそう思ってしまう。