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シャブリ不撓不屈10/サン・マルタン修道院は、あらゆる職業の人々が集う、まさに"修道院国家"だった

スラン渓谷の村シャブリへ避難してきたサン・マルタン修道院の修道士たちですが、トゥールでは2万人を抱える大所帯でした。これは当時としては"小国"とも云える大きさです。サン・マルタン修道院は、あらゆる職業の人々が集う、まさに"修道院国家"だったのです。
それが呆気なくノルマン人の侵略によって陥落した。
なぜでしょうか?
フランク王国は、ローマ・カトリック教団によって持ち込まれた、ローマ帝国式の最新兵法と最新兵器を持った人々だったはずです。馬を駆使し、弓を駆使し、先住ガリア人と東ゲルマニア人諸族を蹴散らした軍人国家だった。そして街そのものも、囲むように城壁で守り、要塞都市を築き、討ち強く・討たれ強いもの・・だった。それが川筋から襲ってくる水軍・ノルマン人の前では、何とも脆かったのは、なぜでしょうか?

たしかに川筋あるいは海岸線での戦闘において"陸軍"で構成されている国家は、"水軍"には弱い。
・・翻ってみると。このノルマン人の侵略から遡る1500年前。強大な文明を誇ったギリシャを滅ぼし、ミケーネ文明を滅ぼし、地中海東海岸のレバント域の諸都市国家を滅ぼし、これら諸国を300年近く暗黒時代へ引き摺り戻したのも、先回「地中海とワイン」の中で触れた「謎の海の民・リューイ人」でした。彼らもまた、海上から無数の船団を組んで海岸線にある都市を襲い、略奪と殺傷だけを行い、奪えるだけ奪うと去る・・決してその地を支配したがらない。・・略奪だけの戦争を仕掛けた民でした。フランク王国は、あの「謎の海の民・リューイ人」と同じ方式の略奪戦争を、ノルマン人から仕掛けられたのです。

戦争の目的が「A/敵を捻じ伏せ、その地を支配する」ことである民と、「B/徹底的に略奪し、終われば遁走する」民との戦いの場合、絶対的に有利なのは「B/後者」です。
たとえば・・核兵器が土地を汚し、使用して勝ったとしても、その地は以降何万年も住めなくなると判った現代では、全面的に核兵器を使用した戦争は・・原則的に起きなくなっています。何故なら、現代戦争の目的は経済戦の延長であり、あくまでも支配するための戦争だからです。
しかし、支配することを目的としない国が相手だったら?略奪と勝利だけを目的とする国だったら?戦いとなれば、如何に「A/国」が大国でも「B/国」が勝ちます。これは歴史が証明している。両国間にウェストフォリア条約は成立しない。
僕が北朝鮮の核装備を何よりも懸念する理由は・・これです。
すいません。話が横に逸れ過ぎました。

戻ります。
トゥールを逃れたサン・マルタンの修道士たちがシャブリ村に辿りついたとき、彼らは、彼らにとって最も重要な聖マルタンの聖遺物を保持していました。そしてサン・マルタン参事会としてこの地で生活し始めます。

では・・ですね。トゥールの街に有ったサン・マルタン修道院から一体どのくらいの人々が、シャブリ村へ移り住んだのか。僕はそこに強い関心を持ってしまいます。・・残念ながらその記録は有りません。村の許容度を考えても、おそらく100人から200人。内訳は、数十名の修道士とその従僕・農奴だったと思われます。大半の人々はそのまま置いて行かれたと考えられます。大事だったのは聖マルタンの聖遺物を守ることでしたからね。遁走集団は小さい員数のほうが宜しい。避難したのは、おそらく王の実弟である司教ドートとその側近、そして直下の農奴たちだけだったでしようね。・・僕は考えます。

こんな風に司教から放り出されたトゥールのサン・マルタン修道院ですが・・修道院としての機能を戻し始めるのは西暦1100年頃からでした。現在の形に戻ったのは1400年後半からです。
その本家の遅々たる修復とは別に、シャブリ村のサン・マルタン参事会が、オーセールに有った他の修道院と協働し、着実に形を整え実力を伸ばして行ったのは、なんとも皮肉な話です。
その伸びていった理由は、同地が既にワインという極めて「儲かる」商材を持っていたからに違いありません。

シャブリ村で作られたサン・マルタン参事会のワインは、陸路20kmでオーセールに運ばれ、他のワインと共にヨンヌ川を下って、北の街へ販売されました。売り先は、北の大市が立つ街ランスであり、パリであり、それより先の大西洋沿岸の町でした。
しかしシャブリ村製のワインが「シャブリ」として認識され、称賛されるのはもう少し先のことです。このころはまだオーセールから出荷される優秀なワインの一つでしかなかった。それと・・絶対量があまりにも少なかった。

それでも一例ですが、アンジュ地方の領主の館に残されている、祖先アンジュジェ伯の事績を伝える十一世紀頃の史料には「シャルル禿頭王と同時代に生きた大領主がオーセールに所有する邸宅で作っている極上ワインがある」と書かれているものがあります。ここで云う"大領主"とは、シャルル禿頭王の実弟でサン・マルタン修道院の院長であるトードであることは間違いありません。おそらく知る人ぞ知るという感じだったのかも知れませんが、優秀なオーセールのワインの中でも、ひときわ際立ったワインとして"シャブリ村"のワインは知られていたのかもしれません。

さて。このサン・マルタン参事会ですが、当初はシャブリ村に有ったサン・ジェルマン修道院分院を借り受けたものでしたが、少しずつ大きくなると、やはりその所帯の大半をオーセールへ移しています。シャブリ村は彼らにも小さすぎたのかもしれません。
それでも西暦1200年代になると同会は、サン・マルタン参事会教会をシャブリ村に建立します。この教会はサンスの司教座聖堂を小ぶりに再現しており、ゴチック期教会建築として最古の部類に入ります。現存していますから、僕たちも見ることができます。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました