見出し画像

勝鬨橋と晴海通り#03

首都の壊滅は当然「遷都論」を巻き起こした。もちろん薩長明治政府はこれを喜ばない。裏のスポンサーたちも喜ばない。こうした人々の動揺を抑えるため、9月12日に帝都復興に関する詔書が出された。ここには「東京は帝国の首都」であり「国民経済の枢軸)」「国民文化の源泉」として国民一般から仰ぎ見られており、震災により大打撃を受けたが、東京が「我が国都」としての地位を失うことはない、と書かれていた。続いて11月10日には「国民精神作興に関する詔書」が発せらている。
これを受けて。19日に帝都復興審議会官制、27日に帝都復興院官制が公布、震災復興計画が立案、新しい帝都のあるべき姿の模索が猛烈な速度で始まった。
中心にいたのが後藤新平だった。

後藤新平1857年7月24日岩手生まれ。父は水沢藩士だった。水沢藩は奥州越列藩同盟に与している。戊辰戦争に敗れて“朝敵”と蔑まされた武家の子である。しかし長く続いた寺子屋でもあった。後藤新平は此処で学んだ。そして12才の時、彼は水沢に置かれた胆沢県の給仕の職を得た。彼が使えたのは、肥後熊本藩出身の大参事安場保和だった。安場はこの頭脳明晰な少年を愛した。朝敵の子だろうが関係ない。安場は新平をひきたてた。ちなみに新平は安場の愛娘と妻にしている。

新平は書生として安場に仕えながら須賀川医学校へ通った。そして卒業後明治14年(1881)愛知県病院長兼愛知医学校長になっている。24才である。
それだけで終わる男ではない・・安場は思ったのだろう。明治16年に内務省衛生局へ推挙。新平は官吏の道へ入った。そしてドイツ留学をへて明治25年衛生局長に昇進している。
その英才に注目したのが児玉源太郎である。彼は台湾総督だった。木霊は新平を民政局長に抜擢した。彼の活躍の場は新開地台湾へ移った。のちに台湾民政長官を務めている。
そして36年貴族院議員に勅選。第2次、第3次桂内閣で逓相、鉄道院総裁、寺内内閣では内相、外相等を歴任し、63才の時・大正9年(1920)東京市長に就任している。
東京市長として未曽有の災いに直面した男。それが後藤新平だった。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました