オーパスワン#03/次代に継ぐ難しさ
フィリップ・ド・ロスチャイルド男爵が、ロバート・モンダヴィを知ったのが何時だったのか・・何も資料は残っていません。
わかっているのは1970年にハワイで開かれたワイン生産者のミーティングの席に、ロバートを招待するようにと指示したのはフィリップだったということです。
アメリカは安ワインを粗製乱造する地だった時代です。その大陸の西の外れに、良いワインを作ろうと孤軍奮闘しているロバート・モンダヴィという男がいることを、そのとき既にワインビジネスの頂点にいた男が知っていたのです。なんという!!
フィリップはこのとき、晩餐の席をロバートと共にしました。そしてその席でフィリップは、共同で新しいブランドを立ち上げることを提案しました。ロバートは驚くと共に快諾した。
「機会があれば、連絡を取り合って、共同事業を起こしましょう!」
しかしこの話が、もう一歩先へ進むには時間が必要でした。
1970年代は、ワインの世界は正に激動の時代だったのです。
1972年。2級格付けだったムートンは、フィリップが希求し続けていた1級になります。ラフィットとムートンは同じ格付けになったのです。その格付けに尽力を尽くしたのは、当時農業大臣だったジャック・シラクでした。これには猛烈なお金が動いた。この資金を背景に後年、シラクは大統領になっていきます。
1974年。とんでもないスキャンダルが起きます。ボルドーの有名どころのワインの多くが、安ワインを混ぜて水増ししていたことが発覚してしまうのです。ウォーターゲート事件を模してワインゲート事件と呼ばれるスキャンダルです。
そのためにボルドーワインは、大暴落してしまいます。
多くのワイナリーは経営不能に陥り、持ち主が入れ替わってしまいました。
そして1976年。パリスの審判です。
フランスワインが、業界の重鎮が立ち並ぶブラインドフォールドテストで、カルフォルニアワインにボロ負けをしてしまうのです。
1978年11月。ロバート・モンダヴィ父娘が、ボルドー/シャトームートンを訪れます。ロバート56歳。フィリップ76歳の時です。
この日から、二人の共同事業の話は急速に進みます。
そしてムートンからルシアン・シオノー。モンダヴィからは、息子のティモシーを出して、1979年、この年に初めてのジョイントワインを生み出します。葡萄はモンダヴィ家のものを使用。ネーミングもジョイントにしようということで、フィリップがOPUSを提案。数日後にロバートがこれに英語のONEを付けました。
OPUSはラテン語で「作品」という意味です。フィリップらしいネーミングです。ONEは英語の「1」です。これもモンダヴィらしい。
ラテン語と英語の合成語である「OPUS ONE」はこうやって出来上がりました。
このジョイントベンチャーワインは、1981年に開かれた第1回ナパヴァレー・ワインオークションで、1ケース・2万4千ドルで落札されています。破格のスタートでした。
市場に出たのは1984年から。第一回目は1979年1980年が同時リリースされました。1979年ヴィンテージはモンダヴィの畑の葡萄でしたが、1980年からは専用の畑が用意された。そして翌年1985年からは、海外への販売も開始されました。まさに破竹の勢いだった。
しかし1988年。一方の雄・.フィリップ・ド・ロスチャイルド男爵が亡くなります。彼の意志を継いで、このジョイントベンチャーを守ったのは愛娘フィリピーヌでした。
あの・・第二次世界大戦のとき。母リリーと共にフランスに残り、母と別れ別れになりながらも九死に一生を得た・・フィリピーヌです。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました