勝どきには「はしけの子供たち」の学校があった: 忘れてはいけない東京水上小学校の記憶
明治時代、隅田川の浚渫工事をしたとき、掘り出した泥と砂を積んで出来たのが、いずれ月島と呼ばれる築島だった。1892年(明治25年)に完成した。そして、2号地、3号地、4号地と東京湾の埋め立ては進んでいるのだが、その2号地、3号地の間にある堀を「月島川」と呼んでいる。隅田川と朝潮運河を繋ぐ全長530mの小さな堀である。その隅田川に月島川水門がある。この水門によって、月島川の船の運航は分断されているのだが、それが逆に、西仲橋周辺に船を係留する良い場所を提供しているようで、僕が知っている月島川の景色は、沿岸に係留されたダルマ船が幾つも並んでいる川だった。ここに船の中で生活する人々の姿が有った。
1950年代後半の話だが、係留するダルマ船はその後もずっと有って、姿を消したのは今世紀に入ってからじゃないだろうか?西仲橋の架け替え工事が有ったから、それに重ねて撤去命令が出たのかもしれないな。そんな風な印象だ。
このダルマ船。正式名は艀(はしけ)貨物を運ぶための船で、駆動力を持たない。ほかの船に牽かれて荷物を運ぶだけだ。そのダルマ船は大抵、船頭とその家族が船内で暮らしていた。千葉房総からの人々で、勝どきや対岸の新川あたりに係留された船の中で生活していた。
もちろん家族だからね。子供たちもいた。
勝どきには、その子供たちのための小学校があったのだ。1930年に設立され1970年に閉設されるまで有った。
「東京水上尋常小学校」という。海運業に携わる有志が作った私学だった。しばらくして東京市の管理下に移り「東京水上小学校」となり、戦争中は「水上国民学校」と改名。戦後は再度「東京水上小学校」に戻っている。
所在地は、いまは勝どきビュータワー/勝どき児童館になってしまった、中央区勝どき一丁目十一番地(旧住所は京橋区月島西仲通九丁目五番地)。
資料はあまり残っていない。戦災をはさんでるからとしても、何とも切ない話だ。
この「水上生活者」の子供たちのための小学校について、少し書いてみたいと思う。
目次
●はしめに 勝どき(旧月島)にあった「はしけの子供たち」の学校
1-1 隅田川は東京の最重要なロジステックロードだった
1-2 東京港湾の海運を支えたのはダルマ船とその船頭だった
2-1東京水上尋常小学校
2-2東京水上尋常小学校の開校
3-1 タルマ船の生活
3-2 水上小学校の卒業
4-1東京水上尋常小学校の沿革
5-1忍び寄る戦争の暗い影
5-2勝鬨海洋少年団
5-3 集団疎開#01
5-4 集団疎開#02
5-5 集団疎開#03
5-6疎開からの引き揚げ
[=幕間のつぶやき=] 明治政府の富国強兵策は日本を自給自足出来ない国にした
6-1戦後の激動の中で
6-2 国民学校から6.3.3制へ
6-3戦争孤児12万人の戦後史
6-4劣悪な食糧事情と衛生環境と戦った公衆衛生局のクロフォード・F・サムズ大佐
7-1 疎開から戻った「はしけの子どもたち」
8-1 SCAPINから見つめる日本の戦後#01
8-2 SCAPINから見つめる日本の戦後#02
8-3 復興に向けて動き始める東京湾の海運事業
[=幕間のつぶやき=] 旧宗主国の「連合軍」、新興国の「枢機国」 そしてアメリカ。その三国志
9-1東京水上民生館の設立
10-1収斂へ向かう東京水上小学校
10-2東京水上小学校の閉校
●おわりに 何も無くなった「はしけの子供たち」の跡