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悪相から脱するには

最近、ふと鏡に映ったオノレの悪相ぶりに、ドキリとすることが多い。
自分自身で嫌気が差してる。
石川淳は「夷斎筆談」の中で云う。
「黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。
いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。明の袁中郞に至つては、酒席の作法を立てて、つらつきのわるいやつ、ことばづかひのぞんざいなやつは寄せつけないと記してゐる。ほとんど軍令である。
またこのひとは山水花竹の鑑賞法を定めて、花の顏をもつて人閒の顏を規定するやうに、自然の享受には式目あり監戒あるべきことをいつてゐる。ほとんど刑書である。
按ずるに、面貌に直結するところにまで生活の美學を完成させたのはこの袁氏あたりだらう。
本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。詩酒徵逐といふ。この美學者たちは詩をつくつたことはいふまでもない。山水詩酒といふ自然と生活との交流現象に筋金を入れたやうに、美意識がつらぬいてゐて、それがすなわち幸福の觀念に通つた。幸福の門なるがゆゑに、そこには強制の釘が打つてある。」

僕は「詩酒徵逐」という言葉を舌の上に乗せて転がしてみた。
人生は喜怒哀楽のうちを流転する。人は一瞬で幸せになり一瞬で不幸になる。幸不幸は、心の外にある"モノ"に拠るわけではない。流転する喜怒哀楽の中に生まれる泡だ。
その泡が悪相をもたらす。悪相は気の乱れであり、悪縁を招く。
石川淳の空とぼけたような俚言が、僕にそのことを気付かせてくれる。
しかし・・悪相から脱するには相当の胆力がいるな。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました