東京散歩・本郷小石川#14/秩父氏豊嶋氏江戸氏の台頭
律令時代「延喜式」に拠ると、武蔵国は久良・都筑・多麻・橘樹・荏原・豊嶋・足立・新座(新羅)・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛澤・那珂・児玉・賀美・秩父の21郡に分かれていた。
武蔵国は、広げた手指のような武蔵野台地にあった。
その東南端、本郷小石川に興った豊嶋氏は、秩父牧を開拓した秩父氏の支系だ。「秩父氏系役帳」や「米良文書」からそのことが窺える。秩父常将の次男秩父武常を開祖とする。本拠地は現在の東京都北区豊島あたり、平塚神社が豊島舘跡だろうと言われている。「平塚神社縁起絵巻」を論拠とする。
秩父氏からは、同じく畠山氏/稲毛氏/河越氏/江戸氏が支系として興こるが、江戸氏は豊嶋氏よりもっと南部の下総側に有ったが、彼らは独自の牧を持っていた。
拙書「古書を片手に歩く隅田川」の中で何回か触れた「吾妻鏡」の中で、関東で源頼朝が挙兵した折(1180)、人馬を揃えたのが、この江戸氏だった。隅田川にあった渡し(向島あたり)の利権も江戸氏あるいはその傍系(葛西氏など)が握っていた。源頼朝が挙兵には、豊嶋氏も参加している。
「吾妻鏡」に拠ると、豊嶋氏開祖である秩父武常は、源頼義・義家に従軍し奥州で戦死している。また「豊島四郎(俊経)」の名前が源義朝の配下として「保元の乱」の条にある。彼も豊嶋氏であろう。まさに豊嶋氏は源氏ととともに興隆していく武家だったのである。
では・・その豊嶋氏の収入源は何だったのか?牛あるいは馬の牧場経営だったのか?そんな視点から本郷台地・小石川台地・小日向台地を見つめてみると・・この辺りには目ぼしい牧の跡がないことに気づく。彼らは何を収入源として一家を為してたのか??である。
おそらくだが・・確実ではない。奥州へ上る道、中部日本と繋ぐ道のハブとして、この辺りは既に成立していたのではないか?今も中山道が大動脈として走っている。そのロジスティックスを豊嶋氏は掌握していたのではないか?そんな風に思ってしまう。
なぜかというと、広げた手指のような武蔵野台地の突端の先に胡人たちが開拓した浅草(胡語で云うアーサクッチャ)があり、此処で生産されたものが北へ東へと伝搬しているからだ。その利権を豊嶋氏は掌握していたのではないか・・と想像してしまう。
「続日本紀・天平寳字二年(758)八月二四日条」に帰化した新羅人(新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人)を武蔵国に移植させ新羅郡を置いたとある。また「天平寶字四年(760)四月二八日」の条にも131人の新羅人を移植したとある。つまり武蔵国は、地元の士族だけで作り上げられたわけではなく、その開拓開墾には多くの渡来人が投下されているのである。彼らは武蔵の地の、牧場経営以外のあらゆる産業の開祖の源になっているのだ。
同じく「続日本紀・霊亀二年(716)五月一六日条」には駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野を開墾していた高麗人1799人を武蔵国に移動させたとあるから、かなり早い時期から新産業開発地として近畿中央政府は関東地方を見つめていたに違いない。
しかし、武蔵国は「蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見ぬまで、高く生ひ茂(更級日記)」地である。
蘆荻の生い茂る広漠たる原野のつづく地である。この地を統べるには、渡来人だけではとても敵わなかったに違いない。そしてそれが豊嶋氏のアイデンティティになったと僕は思っている。
「倭名類聚抄けに拠ると、武蔵国は国衙は府中に置かれていた。列島山間部を京から抜ける道の東端である。21郡119郷を管理していた。その人口は沢田吾一氏の「奈良朝時代民政経済の数的研究」に130,900人ほどだったという。実は当時としては、陸奥国につぐ大国だったのだ。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました