ケルトとローマ#01/"バルバロイ"
エドワード・サイードはその著「オリエンタリズム」のなかで、欧州人の異民族蔑視は古代ギリシャから始まると書いている。西洋/東洋と言う分類も祖はギリシャであると。
現代社会でもそのまま息づいている「西洋(優)=先進国/東洋(劣)=後進国」という図式は、大航海時代を経て強く補完されたが、それ以前にギリシャ時代から連々と続くバルバロイbarbaroi(蛮人)思想が背景にあると言う。
しかしこのバルバロイと言う言葉だが、その出自を考えると、どうも"異民族蔑視"というより、当初はむしろ日本語の"外人"という言葉に近い使われ方をしていたと見るべきではないか。ギリシャ人は日本人のように、人なるものを"自分たち"と"その他の人"という2大分類していたのではないか。そう思えてしまう。
例えばホメロスの「イリアース」だが、トロイア戦争でトロイア側について参戦したカリア人について「異民族の言語を話す/barbarophonosなカリア人」と書いている。ここで使われているbarbarophonosは"ギリシア語ではない言語を話す」という程度の意味で、そこに蔑視の座位はない。いうまでもないが、ギリシャは"ギリシャ"と云う統一国家だったわけではない。一つ一つが独立国家であり人種的民族的統一アイデンティティを持つ必然性を持っていなかった。
そのギリシア人たちが、我々は優性人種すなわちヘレネスHellenesであり、それ以外はバルバロイbarbaroi(蛮族)であるとし始めたのは、やはり彼らがアテネを類型とする幾つもの大きな都市国家をバルカン半島西側に建造した以降に思える。なぜか?僕は東方アナトリア地方に誕生したリュディア王国の影響を強く感じるだ。
リュディア王国は強大な国だった。
ギリシャの東側イオニアは、彼らによって蹂躙され支配された。B.C.700年ころである。
そして此処に二つの文化が重なり合って"イオニア学"派が生まれる。アリストテレスは彼らを、ピュシオロゴイphysiologoi(自然について語る者)と呼び、その著「形而上学」では"史上最初の哲学者たち"であると言っている。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ヘラクレイトス、アナクサゴラス、ディオゲネス、アルケラオス、ヒッポンなどがそれだ。
俯瞰して彼らの論理を見つめてみると・・その「根源(アルケー)はなにか?」を見つめる視線は、悉く二元的対立論である。おそらくその彼らからの強い影響で、ギリシャ人たちは「優性人種/劣性人種」という切り分けを生み出して行ったのではないか?僕はそう思ってしまう。
そして時代と共にその優劣二元分類は補完され強化された。
たとえばギリシャ悲劇だが、エウリピデスの書いた悲劇「ヘレネ」では、ヘレネが「バルバロイでは1人をのぞいてはすべてが奴隷」と語る。さらに「アウリスのイフィゲネイア」では、イフィゲネイアがバルバロイをギリシア人が支配するのはふさわしいけれど,バルバロイがギリシア人を支配することはふさわしくありません。あちらは奴隷,こちらは自由の民なのです」と語る。
登場するバルバロイたちは、何れも奇異なほど戯画化されステロタイプな存在だ。
最初、彼らは東方の人々を見つめていた。しかしその視線は少しずつ北方へ向くようになる。北方の「荒らぶる民」こそ、まさにバルバロイだったのだ。
その北方の「荒ぶる民」を、ケルト人と最初に呼んだのはギリシャ人だった。ギリシャ人は「彼らは、自らをケルト(戦う民)と云う」と書いた。
このケルトceltの語源についての説は定まっていない。確かに「戦う民」という意味であると云われることが多いが、これは定説ではない。その説を証明する文字が現在の所見つかっていないからである。ケルトは文字を持たなかったからだ・・
その名前が現れるのはB.C.600年頃からで、ギリシャ人は、北方に住む一族として彼らを捉えていた。
そのケルト人が、ギリシャ人の地バルカン半島に"驚異"として登場するのは、B.C.281年にマケドニアへ侵攻した時からである。この戦線はアナトリア同盟軍によってデルフォイで止まったが、ケルト人による侵攻はその後度々有り、ギリシャ人は彼らの侵攻に悩まされた。そのため、かなり沢山の碑文が残されている。
例えば、マケドニア王アンティゴノス・ゴナタスをアテナイが顕彰している。アスクレピアデスの息子ヘラクレイトスを顕彰した決議には以下のように書かれた。
「デーモスが宗教儀礼およびパンアテナイア祭の競技祭を復興したとき,彼(ヘラクレイトス)は競技場(スタディオン)を整備して立派にし,アテナ・ニケ女神にギリシア人の安寧のためにバルバロイに対して王(アンティゴノス・ゴナタス)によって成し遂げられた事績を記録した書板を奉納した。」
此処で云う「バルバロイ」とは、まさにケルト人のことである。
異語を話し、ギリシャ世界の外に住み、荒らぶる下種な輩として、ケルト人は脅威と蔑視の対象になっていったのである。