ケルトとローマ#02/"異民族蔑視"
そしてローマ人も、北の民をケルティと呼んだ。もっとも彼らの云う「北」は、当初イタリア半島の根元辺りのことだ。彼らが暮すラティウム地方の北東はEtruscanであり、北西はUmbrianである。それより北に住むのがCeltだったのだ。
ただ。ひとつ注意しなければならないのは、ここで話題にする問題についての一次資料がティトゥス・リウィウスTitus Livius(B.C.59年頃-17年)がアウグストゥスの指令により書いたAb Urbe Condita「ローマ建国史(岩波文庫)」しかないことだ。ローマ人的な視線のデバイスがかかっている。つまり同書は "如何にローマ帝国が出来上がっていったか"という歴史書なのだが、その座位は"如何に偉大なローマが周囲の都市国家連合を呑みこんでいったか」に終始している。第一次ラテン戦争も第二次ラテン戦争も、その視点から描かれている。したがって、このローマ人が云う「ケルト=北の民」という位置づけも、実はとても注意すべき"括り方"である。決して「ケルト人」なるものが最初から独自な種族として在った訳ではない。
ローマ人の祖となったラテン人は、東のアナトリア地方から拡散した人々/一部族である。これは間違いない。彼らは印欧語を話し、ヤギヒツジなどの家畜を持ち、きわめて優秀な灌漑技術を持っていた。つまり逆に云うならば、その二つの技能を活かすためには、活かせる広い適地が必須だった。それが彼らが東へ西へ北へと拡散していった理由である。
そして、その西へ拡散していった人々は、イタリア半島で広大なポー平原に出会う。此処に強大な農耕文化を築きあげる。それがローマ帝国へ繋がっていくのである。
もちろん、東からイタリア半島へ渡来したのはラテン人だけではない。様々な民族が此処に居を構えて独自の経済圏を育んだはずだ。では。彼らとケルト人の差異は何か?差異を見出す必要は有るのか?
ティトゥス・リウィウスは、彼らポー平原に広がった人々を全てひと括りしてラテン人と呼ぶ。B.C.700年頃から作られるプラエネステ、アリキア、アルデア、トゥスクルムなどラテン同盟を結んだ都市は、大半がラテン人によって構成されていると。僕は彼の口調に、第一次ラテン戦争で圧勝したローマの「五族協和/同根/人類(ラテン人)皆兄弟」思想の臭いを感じてしまうのだ。ローマは第二次ラテン戦争(B.C.340)後、それぞれの都市にローマ市民権を与え、これを自治都市ムニキピウムmunicipiumとした。彼らがラテン人と見做した人々すべてをローマ人とした。
なぜか?最初のローマ・ガリア戦争が勃発した時、そこに「ローマとガリア」という二元構造が必要だったからである。この戦争を、北方の(劣性人種)バルバロイ=ガリア人と優性人種であるローマ人との戦いという視座で捉えるためである。
最初のローマ・ガリア戦争で、ローマと戦ったのはセノネス族、インスブリ族、ボイイ族、ガエサタエ族だった。彼らは「ガリア人である」とローマは云う。アルプスより以南のガリア・キサルピナGallia Cisalpina(属州名)であると云う。ちなみにアルプスより以北のガリア人はガリア・トランサルピナGallia Transalpinaと云う。
もちろん、彼らガリア人の中に「我々はガリア人である」という意識があるわけではない。あくまでもこれはローマ人側からの"異民族蔑視"視座である。ローマに奉ろわぬ北方の人々が全て「ガリア人」なのだ。日本式に云うならば、すべて「外人」だ。
この最初のローマ・ガリア戦争を「ガリア人から侵攻である」とするのも、まさにローマ的な視線だ。
それはまさに「ガリア人は、安寧と繁栄を守る我らがローマ帝国に盾付く蛮族であり、討伐すべき民族である」というロジックを裏付けるための位置づけである。こうしたバルバロイ→討伐思想は、現在に至るまで連々と西欧社会に受け継がれている。
「自由と民族の尊厳を支持する戦い」である。正義を標榜する人殺し(戦い)だ。
余談だが。僕の座右の銘を紹介したい。
「正義と、貴方のためになる!を羅列するセールスマンのものは買うな」
にほんブログ村 酒ブログ ワインへ
にほんブログ村
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました