フランク王国の荘園制/beaujoLais nOuVEauに秘められたLOVE#04
クローヴィクスが興したフランク王国は、ローマ式統治法とゲルマン的統治法の混成でした。王は中央政権の中央にあり、諸侯がその下に連なります。部族集合体だったころの名残です。諸侯は王からナイトの称号を授与され、同時に土地を与えられる。この「騎士と荘園」という構造が、フランク王国の特長です。フランク王国は、荘園という形で騎士たちに土地を分配し、開墾させ統治させることで、広大な森の大地・エウロパを掌握しようと考えました。そしてその精神的な支えとしてキリスト教を用いた。この構造は、フランス革命が起きるまで、フランスと云う国の基本構造になりました。
なぜキリスト教なんでしょうか?ローマ人はギリシャ神話を踏襲した多神教だった。そして多神教の傾向として、あまり宗教への帰依感は少ない人々でした。云ってみれば「困ったときだけ神頼み」という程度のものだったのです。一方、キリスト教は単一の神です。単一の神の宗教は、強い帰依感を要求する。そして上から下に従属関係が広がるヒエラルキー構造を形成します。つまり神の代弁者である教会を頂点とした霊的支配です。これは、複数部族の集合体であるフランク王国にとって、とても便利な考え方だったのでないでしょうか。
王による経済の支配のヒエラルキー。教会による心の支配のヒエラルキー。
ローマ人たちよりも、はるかに迷信深く、神秘なるものに強い畏怖感と憧憬感をもっていたゲルマン人/ケルト人を掌握するには、この二本立ての支配「政治経済的支配」「霊的支配」が極めて有効だったのかもしれません。
フランク王国の特長はこれです。騎士と教会/修道院をセットにして、民と諸侯の掌握するという方法です。これはパリ革命によって王国が倒れるまで、そのまま踏襲されました。
現在でも、フランスの田舎町に行くと、村の・町の中心にあるのは、必ず修道院・教会です。それを包むように何重にも連なって家が建つ。そしてその外に広大な畑がある。そうした田舎町が街道で繋がって、シナップスのように広がっている。そんなイメージでしょうか。そんな田舎町が大きくなり、その地の支配者である、王と教会から任命された騎士/諸侯が住む程の街になると、畑と街の間に城壁が作られ、城塞都市となります。
こうした荘園は、何れも原則的に閉じられた経済圏で、自給自足型でした。それぞれを繋ぐ街道は有りましたが、交易はあまり盛んではありませんでした。しかし諸侯は、王の命令が有れば荘園を出て、王と共に戦いへ出なければならなかった。そのため、荘園は頻繁に支配者不在/代理人管理になる場合が多かったのです。そうした不安定な状態になっても、内乱が起きなかったのは、キリスト教を利用した霊的支配が高機能だったからでしょうね。
その代り。と云ってはナンですが、代理人内での内部抗争は熾烈を極めていました。多くは近親者だったのですが、だからこそ強い憎悪と妬みが暗躍して、足の引っ張り合い・殺し合いが日常的に行われてました。これもまたフランス王国の、支配者たちの典型的な絵姿になっていくというのは・・なんとも嗜虐的ですね。そこにキリスト教的な愛と謙譲の精神は全く反映されなかったのです。