夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#06/アヴィニョン#06
ローマはカルタゴを恐れ、これを憎むことで、組織の連帯感を得た。
この・・敵対する存在を持つことで、自分の存在意義を保つ・・という手法の採用。これはもしかするとローマが最初かもしれない。王を持たぬ国は、協賛者を得るために、こうしたプロパガンダが必須だったのかもしれない。
カトーは元老院での演説のとき、見事に実った無花果の身を見せて「「これほど見事なイチジクを産する国が3日の距離にいる」といった。「「カルタゴは滅ぶべき」カトーはこの"Carthago delenda es"を演説のたびに繰り返している。
共和政時代、ローマはその領土をバルカン半島とギリシャへ拡大していた。そして難癖ともいうべきカルタゴへの挑発/攻撃・ポエニ戦争(第一次~第三次)でカルタゴを全滅まで追い込むと(同時にカルタゴに味方していたコリントも滅ぼす)シチリア島、サルデーニャ島、イベリア半島の大部分、北アフリカの一部、バルカン半島を自分のものとした。
この拡大で最も利潤を上げたのは平民(騎士)派だった。以降、元老院側と平民はさらに確執を深くしていく。
BC146年以降である。スッラ、ポンペイウス、クラッスス、ジュリアス・シーザー、マーク・アントニウス、オクタウィアヌスなどが利権を求めて台頭するようになった。ローマの歴史家サルスト(BC85-BC35)はこう書く。「まず金銭への欲望、次に権力への欲望が彼らに芽生えた。これらが諸悪の根源だったと言えるだろう」
謀略と暗殺、暴動が続く時代になった。こうしてローマは、カエサル・ポンペイウス・クラッスス三頭政治へと体制を変えた。
しかしクラックスが死んだことで三頭政治による安定は短命に終わった。カエサル・ポンペイウスが覇を争う形へと変わってしまった。
ガリア戦争で膨大に資金を得たカエサルがルビコン川を「賽は投げられた」と渡った時、両者の戦いは本格化した。敗色濃くなったポンペイウスはエジプトへ逃げるが現地で殺されてしまった。
カエサルは「私は来た、私は見た、私は征服した」と言ったという。BC44年、ローマ元老院はカエサルを「終身独裁者」に指名している。しかしその年の3月15日、上院議員のグループが元老院内でカエサルを刺殺している。
以降混乱に陥ったローマは、アクティウム海戦(BC31)を最終戦として共和国軍を支配していたオクタウィアヌスのものになっていった。
BC27年、元老院は彼に「アウグストゥス」という名前を与えた。ここからローマは実質的にアウグストゥスを皇帝とする帝政時代に移っていく。・・このオクタウィアヌスだが、父はガイウス・オクタウィウスGaius Octaviusという。平民派(騎士)だった。マルクス・アントニウスは彼を
"解放奴隷の子"と呼んでいた。ローマは帝国化し、彼と共にて平和、繁栄、拡大へ突き進んだ。
属州拡大時代。敗北した国土を共和国は、まずこれを国有地にした。アゲル・パブリクスager publicusという。そしてこれを入植者に譲渡した。多くの入植者はローマ人ではなく退役軍人だった。退役軍人はローマ市民権を与えられ、幾何かの報奨金を得て、これを資金に入植者になった。そしてこれを管理する形で平民(騎士)が深く関与した。この体制は帝国時代に入っても変わらなかった。
帝政時代は紀元476年まで続いている。