見出し画像

勝鬨橋と晴海通り#06

震災翌日1923年9月2日。第二次山本内閣が立ちあがった。親任式はその日の夜、赤坂離宮(東宮御所)で行われている。
大阪朝日新聞 大正12年9月4日朝刊を引用する。

「内閣組織の大命を拝した山本権兵衛伯は去月二十九日以来築地水交社に於て組織に着手し先づ挙国一致内閣を組織すべく政友、憲政両党首を始め各方面の有力者に其賛否を求めた処高橋、加藤両子の入閣拒絶で所謂挙国一致内閣実現不能となって第二の人材内閣組織に着手して準備を進めてゐた処一日正午の大震災で伯自らが纔に躬を以て難を遁れたる有様で内閣組織談は一先づ中止の形となって爾来伯は芝白金なる財部海相私邸に避難してゐたが一方新閣員たる後藤新平子は未曽有の災害に対し幾多の新施設を要するものあるに拘らず政局の安定を欠くが如きは容易ならぬことであると一日午後山本伯を訪問して意見を述べたるに伯も同意で此際閣員の顔が揃はずとも急速に新内閣を成立せしむべしと其方法を講じた
而も既に閣員たることを承諾したるも震災の為所在容易に判明せず顔触決定難であったが二日午前は後藤子山本伯を再訪し協議の結果愈新内閣を成立せしむることに決し同日午後山本伯は赤坂離宮に参内し摂政宮殿下に閣員名簿を奉呈したるに同午後七時四十分赤坂離宮に於て親任式を行ふことになった(東京電話名古屋経由)
任内閣総理大臣兼外務大臣 伯爵 山本権兵衛
任内務大臣 子爵 後藤新平
任大蔵大臣 井上準之助
任陸軍大臣 男爵 田中義一
任逓信大臣兼文部大臣 犬養毅
任農商務大臣兼司法大臣 男爵 田健治郎
任鉄道大臣 山之内一次
任海軍大臣(留任) 財部彪
任内閣書記官長(一等) 樺山資英

後藤新平は内務大臣を受命された。東京市長と兼任である。そして9月29日帝都復興院総裁に任命。東京の復興は彼の手に預けられた。
新平は拝命すると、すぐさま麻布自宅へ戻り、女婿だった鶴見祐輔に「ニューヨークのビーアド博士に電報を打ってすぐ来るように言ってくれ」と命じた。そして二階へ閉じこもった。
チャールズ・エー・ビーアド博士Charles A. Beardは、当時後藤新平が最も信任していた学者である。
新平は東京市市長に就任すると、8億円規模の帝都再興を作っている。東京の街並みは、江戸時代に作られたもののままだった。江戸幕府は大きな道をご府内に作らなかった。江戸が何れかに侵攻された時を考えて軍隊が容易に進めない為である。そのため物流は直参旗本が取り仕切る水運業に任されていたのだ。後藤新平はそれを根本から変える都市計画を考えていたのである。ビーアド博士は、そのために招聘されたアメリカの学者だった。彼は21年の秋に創設まもない東京市政調査会の顧問を務め、その折に新平と強い師弟関係とも云うべき繋がりを結んでいる。
ビーアド博士は新平からの電報を受け取ると忽ち状況を把握、NYCから矢継ぎ早に電報を返してきた。それは「新街路ヲ決定セヨ」「街路決定前ノ建築ヲ禁止セヨ」「鉄道ノ駅ヲ統一セヨ」という具体的な指示だった。新平は大喜びした。

さて。後藤が示した復興の基本方針は次の4点だ。
1.遷都スベカラズ
2.復興費ハ30億円ヲ要スベシ
3.欧米最新ノ都市計画ヲ採用シ我国ニ相応シイ新都ヲ造営セザルベカラズ
4.新都市計画実施ノ為メニハ、地主ニ対シ断固タル態度ヲ取ラザルベカラズ
新平は震災復旧を超えて、もっと大きな帝都の再構築を行うつもりでいたのだ。
新平は、震災をきっかけに今度こそオスマン男爵のパリ大改造に匹敵するような、新都市計画を作るつもりだったのである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました