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黒海の記憶#22/ポントスの血#02
翌朝、朝食の席でその日のスケジュールを立てた。立てたってぇっても、昼飯どこで食べるか?晩飯は?って話をしただけ。あとはひたすら第一次世界大戦によって姿を消したオスマン帝国の話とその顛末のことばかりが話題だった。カヤキョイをどう歩くかは彼に一任した。
「デヴシルメ制度の廃止したことでイェニチェリは新陳代謝しなくなっちゃったんです。で、見る影もなくオスマン帝国は弱体化したんです。西ローマ帝国が歩んだ道をそのまま繰り返したんです。にもかかわらず慢心したままだったから、新しい利を求めて近在のオーストリアやイランへ無謀無策な侵攻を繰り返した。そのために乗税重税を重ねた。それがジェラーリーの反乱をもたらしました。そして1699年のカルロヴィッツ条約が東ローマと交わされて、以降はひたすら下り坂の道をたどっています」
「だれも復権に粉骨砕身する者がいなかった?」
「国の礎ともなるべき教育機関が、あまりにも旧態依然としていて、官吏も能才も育ちようがなかったんだと思います。オスマン帝国は我が子の教育の不備によって滅びた国です。19世紀に起きた近代化政策も体制を時代に適したものにまではできなかったんです。なにしろ駒がなかった・・という悲劇です。歩と飛車角王将しかない将棋だったんです」と彼は面白い喩えをした。
僕は明治政府を連想した。薩長から流れて出て来た革命勢力は江戸を墜とした後、自藩には戻らなかった。江戸で全国から青雲の志を持って出てくる若者たちを積極的に受け入れた。それが可能だったのは、江戸時代の藩制が極めてマメに寺子屋などによって教育の普及を行っていたからだ。その背景が「明治の奇跡」をもたらしたのである。そのことを僕が言うと彼が得心した。
「なるほど。日本にいたとき、とても不思議だったのは、地方と中央のインテリジェント格差がすごく狭いことでした。地方にも知識人と言える人がとても多い。なるほど、それを聞いて納得しました」彼が言外に濁したのは・・中央ヨーロッパ/東欧/小アジアではあり得ない・・という言葉だった。
「なるほど・・」彼がしばらく沈思した。
僕は僕で、彼の「オスマン帝国は我が子の教育の不備によって滅びた国」という言葉を噛みしめていた。
日本はどうだろうか?我がシンガポールはどうだろうか?図書館は有っても美術館/博物館は希薄なシンガポールの若者たちは何を・・何をだけ・・学ぶのか?
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