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ボージョレー、さらなるマーケットの拡大/beaujoLais nOuVEauに秘められたLOVE#12


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1850年代末になると、パリ・リヨン・地中海線鉄道が開通。沿線のデジョン・ボーヌ・マコン・アンヌの販売先が大きく拡大されます。これはブリアール運河開通に次ぐ大革命でした。ブルゴーニュ、ボージョレーのワインは、パリでもプロバンスでもアビニョンでも売れるようになったのです。マーケットは一気に拡大した。

この大きなうねりの中で、ブルゴーニュとボージョレーは、よりはっきりとマーケットの棲み分けをするようになりました。前者は「おえらがた」をターゲットとし、後者は「庶民」をターゲットにしたのです。


爾来、早飲み用のワインを作っていたボージョレー地区のそれは、安価で、あまりアルコール度数も高くなく、優しいワインでした。まさに日々楽しむためのテーブル・ワインだったのです。彼らが使用しているガメイという葡萄は、沢山の果実を付け、大量のワインが作るには、うってつけの葡萄だったのです。

比してブルゴーニュで使われていたピノ・ノワールは気難しくデリケートで大量生産向きではありません。したがって高付加商品の道を進むしかなかった。もちろん安価路線な商品として、ピノとガメイを1/2ずつ混ぜるパス・トゥー・グランPasse-Tout-Grainsというものもありましたが、こちらはどちらかというと地元で消費されるワインでした。

同じような地元で消費されるワインとしてボージョレーに有ったのは、ピントと呼ばれているもので、こちらは絞った葡萄糟に水を混ぜて作ったものでした。農家は主にこれを常飲していました。


マーケットの拡大によって、ブルゴーニュ・ワインは、より先鋭化し、ボージョレー・ワインは、よりシステム化していきました。

栽培から醸造・瓶詰め・出荷・販売まで、専業化・分業化するという考え方は、それぞれのポジションの工夫とソフティケーションを、より促します。ボージョレー・ワインが、パリ・マーケットの半分近く占めていった背景には、こうした産業としての進化が有ったからだと云えましょう。産業のシステム化において、従来パリのワイン消費を担っていたロワール流域/イルド・フランスに有った農家は、ボージョレーより二歩も三歩も立ち遅れていたので、まったく太刀打ちが出来なかったのです。そのため、パリ周辺に有った葡萄農家は次々に生産物を他のものに変えてしまい、終いには殆んどなくなってしまいました。

実はこのボージョレーが辿り着いた、高機能な「ワイン産業のビジネス・モデル」は、以降のボージョレーの販売戦略においても、現状に即対応できるシステムとして動きます。いち早い台木の導入、ヌーボーの開発、広報戦略など、次々に成功していくのです。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました