堀留日本橋まぼろし散歩・#23/堺町・葺屋町・芝居町
「ただの葦っ原だったトコが遊興の地になって、人が足繫く通う地になって、そこに目を付けたのが、初代中村勘三郎。江戸中村座の創始者だ。彼が禰宜町(今の日本橋堀留町2丁目)へ芝居小屋を起こしたんだよ。寛永9年(1632年)だ」
「歌舞伎?」
「ん。歌舞伎。もとは江戸中橋南地(八重洲)にあった。初代中村勘三郎が座長だ。櫓を上げたのは寛永1(1624)年2月15日。初代中村勘三郎は狂言師でね、猿若で名を馳せた人だった」
「猿若?」
「ん。所謂出雲阿国のころにはもうあった狂言回しの役どころだ。出雲阿国は出雲大社の巫女だったと書かれることが多いが、実のところはよくわからない。文禄年間に出雲大社勧進のために諸国を踊って歩いたというが、実際には遊女を兼ねていたんだろうな。江戸初期の生きていた公家西洞院時慶が残した『時慶卿記』の中に『クニ』なる者が『ヤヤコ跳』を踊ったという記録は残っているから実在はしていたようだ。『ヤヤコ跳』はその名の通りヤヤコ=幼ない子供の可愛らしい踊りたった。それが『傾奇もの』が踊るセクシャルな『かぶき踊』になっていくんだ。猿若はそのなかに狂言回し脇役として動く、きわめて重要なポジションだよ」
「へぇ~じゃあ猿若勘三郎は出雲のお国の一座にいたの?」
「そういう資料はない。甲子夜話に『生国尾州愛知郡中村』とあるから、いまの名古屋の人だな。慶長3年(1598年)生まれだ。阿国との接点はなかったととみるべきだろうな。大蔵流狂言を学んでるから、阿国よりもっと正統的な明るいところを歩んだ芸事の人だ。23の時に江戸へ出てきている。当時新しい芸事として『かぶき踊』は江戸市中でも知られていたからね。正統的な若き狂言師中村勘三郎はこれに強くインスパイアされたんだろう・・それで寛永元年(1624年)2月15日、猿若勘三郎と名乗って江戸中橋南地に芝居小屋「猿若座」を建てた。そしてその勘三郎が創作した『猿若舞』が一世を風靡したんだ。これが8年後、寛永9年(1632年)に禰宜町(今の日本橋堀留町2丁目)へ越してきたんだよ。
これが呼び水になって寛永11年(1634年)に村山又三郎が村山座を興した。お隣の堺町にね。京で座本をしていた村山又兵衛という人の弟で、江戸に出て自分で櫓をあげたんだよ。これを承応元年(1652年)に又三郎の弟子だった市村宇左衛門が買い取って市村座とした。
堺町の中村座と葺屋町の市村座は通りを挟んで並んでたから、これに相乗りして玉川座とか古浄瑠璃の薩摩座や人形劇の結城座が続々とできて、その客を相手に芝居茶屋がいっぱいできて、近所には役者や芝居小屋の人たちが多数住むようになって、いつの間にやら一大芝居町になったんだ。日本橋川の東側にね」
「なにか"まぼろし"の跡はあるの?」
「ない。役所が作った看板だけだ。『江戸名所図絵』には、当時の様子がパノラマで描かれている。堺町の中村座と葺屋町の市村座だ。裏通りは楽屋新道と呼ばれたとある。江戸三座というと、中村座・市村座・森田座なんだが、盛田屋は我が木挽町に有った。万次2年(1660年)に櫓を上げてる」
「あら!いまの歌舞伎座??」
「いや、いまの歌舞伎座の前身は、明治事態に福地桜痴が起こしたものだ。森田座を継いでいるわけではない。森田座は晴海通りの向こう今の銀座六丁目辺りにあった。周りに山村座/河原崎座なんてのが続いて出来て、こちらも芝居町としてにぎわってた。でも天保の改革で浅草の猿若町へお上のお達しで移動してる・天保14年(1843年)だ。天保12(1841年)に堺町の中村座が火事出してね。葺屋町の市村座も類焼して大騒ぎになったんだ。時の老中水野忠邦が、こりゃ好都合と江戸の芝居小屋を吉原みたいに浅草猿若町一か所に押し込んだんだ。当時、猿若町は一丁目から三丁目まであって、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目には守田座か有った。他の芝居小屋もここに集めたから、水野忠邦の意に反して巨大遊興地になっちまった。」
「浅草って、裏には吉原も有ったんでしょ?」
「ああ、吉原に同じように遊郭を終結させたのは寛文8年(1668年)だ。120年くらい前だ。実はね、この辺りが吉原が居なくなっても寂れなかったのは、中村座と村山座のおかげで芝居町として成立していたからなんだよ。さっき話した陰間茶屋もな。芝居町だからこそ成立したんだと思うな。野郎歌舞伎ってね。当時歌舞伎は全員男だったからな。女役も全員男が担ってた。それから派生した仇桜な文化だったんだと思うな」
「そうねぇ~歌舞伎座で見る玉三郎さん、本当にきれいですものねぇ」と嫁さんが溜息をついた。
「・・ついでに言うと、盛田屋はゲンをかついで守田屋と改名してるんだが、明治5年(1872年)に新富町に移転して、ここでは新富座と名乗った」
「あらま、新富町に歌舞伎座があったの?」
「ん。歌舞伎だけじゃなくて、なかなか洋風のものも掛けていたようだ。いまの京橋税務署な。あの辺にあった。でも関東大震災で全勝して、それっきりになった。『新富座の跡』という看板が有るよ。こんど税金払うついでに見といで」