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he United Service Organizations Inc
デマジオと新婚旅行で来日したマリリンモンローが、そのまま朝鮮戦争の最前線へ慰問に行った話は有名だ。
ディマジオは帝国ホテルでマリリンの帰りを待っていた。朝鮮慰問から戻ったマリリンはディマジオに言った。
「何万人もの歓声だったのよ。すごかったわ!」
ディマジオは憂鬱そうに言った。
「知ってるよ」
何万人何十万の歓声を彼は球場でいつも浴びていたのだ。
新婚旅行から帰国した2人は、ほどなくして別れた。小さな家庭を夢見て結婚した2人だったが、背負っているものがあまりにも大きかったからだ。
その朝鮮戦争慰問マイナス10度の極寒のステージで、彼女は肩を出したワンピースで笑顔いっぱいで歌っている。
そのドレスの上にB-15を羽織った彼女の写真が大好きだけど、その動画を見るたびに、僕は彼女のステージに相反する熱気と温気に塗れたベトナムへ、慰問演奏した沢山のタレントたちのことを思い出してしまう。その話をしたい。
he United Service Organizations Incで働いた大学自体のことだ。
1970年から1974年までのこと・・
僕の20代だ。
思い出すまま名前を挙げるとThe Bar-Kays、Ike & Tina Turn、Three Degrees、Carole King、Sam & Dave、Melanie、Bee Geesなんかかな?タレントはビッグネームから泡沫まで様々だった。
当時、来日タレントがそのままベトナム戦線慰問というケースが多かった。となればバックバンドが必要で、読譜力のある僕らみたいなジャズ屋が便利に狩り出されることになる。そのころはまだフィリピンは少なかったから(読譜力?)いきおい日本人ミュージャンと本国からの出稼ぎミュージシャンの混成グループだったな。
ビッグネームのタレントの場合、まずはじめにリハーサル用のシンガーが来て、彼/彼女と本番で使う譜面を見ながら音合わせをする。
ステージは、タイランド側にあったサッタヒープ基地やウタパオ基地で演られることが多かったが、タレントによっては、まんま前線近くの仮設ステージで・・というのもあった。この仮設ステージと云うのが曲者で、リハ最中に未だ出来上がってなかったり、遠くから続けざまに爆発音が届いてくるような場所に設置されたりした。そんな時は、施工する工兵を守るように自動小銃を構えたGIが何人も四方に立つ。もちろん、ステージをやってる最中も彼処に彼らが立ったままでいる。だから当然ギャラは良い。でも演りたがるミュージシャンは少なかった。
そんな仮設ステージで、ときおり何故かビッグネームのタレントが歌うことが有った。となると・・バックバンドのギャラはどん!と高くなる。
そんなMD(とても危ない)仕事ばかりを選んで演ってた。
特に、1971年8月15日以降、スミソニアン協定が結ばれて一気にドルが360円から308円になった冬/春の仕事は、そんなのばかりを選んでいた。
大学行きながらのキャンプ回りだったからね、そんなに使える時間に余裕がなかったから、どうしても高額給与のばかり選んでいたんだ。僕にとって「もうひとつの8月15日」は、MDな仕事を選ぶしかない所へ追い込まれた厄災でしかなかったのだ。
変動相場制の話をするとき、今でも僕は鼻の中の奥底に焦げる臭いと蒸せるような緑の臭いを浮かべてしまう。
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