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「普通でいいか〜」は、ほぼ盗作だと思う。

お世話になります。コピーライターの杉浦です。
「普通でいい」・「攻めなくていい」というオーダーをクライアントから受けたことがある人って、どれくらいいらっしゃるでしょうか。これに違和感を感じているうちは、まだクリエイターとして生きていると僕は個人的に思っているのですが、よくよく考えてみると「普通」の何がダメなんだっけ?と思われる方もいるかもしれません。今日は、クリエイティブにおける「普通」のアンチをしたいと思います。

クリエイティブにおける「普通」は、悪魔です。

あえて「普通」の意味をおさらいしておくと、特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。当たり前であること。です。普通という感覚は突然現れるものではなく、元々は新しかったはずです。それが世の中に浸透した時、その感動に慣れてしまった時、はじめて「普通」という感覚が生まれます。ということは、クリエイティブにおける「普通を狙いに行く」という行為は、すでに世の中にありふれているもの、どこかで一度は見たことがあるものを真似た「それっぽいもの」をつくるという、クリエイターにとっての「悪魔の囁き」を受け入れるような行為だと僕は思うのです。そうやって生まれたものは、「ほぼ盗作」と言っても過言ではないのかなと。

「もっとこんな感じにできない?」は、崩壊の前兆。

…お金を払う会社の社長が、そう仰っているのなら、それが正義なのかもしれません。本気で言っているのか、何かのヒントになれば…というジャストアイデアとして言っていただいている場合もあるので蔑ろにはできませんが、「こういう感じ」という既存の資料に囚われてしまうと、どんどん新しさの角を削られた「普通の作品」になっていきます。そして既視感のある作品は、大量に生み出されていくコンテンツの中に埋もれていきます。

無感情より、つまんねー!の方がマシ。

普通には、心を動かすことができません。地方出身の方なら共感してもらえると思うのですが、ローカルCMの放つ「つまんなさ、奇妙さ、恥ずかしさ」は、なんだかんだ耳に残ってしまい、クセになります。ちょっと色気付いて「それっぽい」クリエイティブな広告を意識した地方CMも増えてきましたが、以前よりも記憶に残らなくなりました。

やっぱり意外性(ギャップ)が大切。

クリエイティブにおいて、「普通でいい」なんてことは、ありえません。僕は、「不真面目な不良」よりも「真面目な不良」が好きですし、「傲慢な天才」よりも「謙虚な天才」が好きです。それは不思議と皆さんも同じはず。

クリエイティブの追求は、意外性を求め続けることだと僕は思います。そんな意外性を生み出すためのきっかけになる手法を少しずつまとめ、いつか本にできたらといいな〜と思っています。

それでは、また。


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