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猫田による猫田のための、積ん読。

積ん読する者の気持ちが分からないと、
そう思う時期もあったけれど、
今家に5冊ほど積ん読している。

やる気ほど鮮度が重要なものはない。
ドリアンくらいには新鮮でないといけない。
採れたてを食べる以外ない。
ちなみにドリアンは食べたことがない。

しかしあくまで個人の意見だけれど、
活字は一口目が恐ろしく億劫で、
みるみるやる気の鮮度が落ちる。
そういうものの一つなのです。

だから読みたいと思って買ったはずの

『柳田國男ささやかなる昔』も
『わたしの全てのわたしたち』も
『京大的文化事典: 自由とカオスの生態系』も
『若い読者に贈る美しい生物学講義: 感動する生命のはなし』も
『感情類語事典[増補改訂版]』も

無事本棚に積ん読かれている。

しかし鮮度が落ちたやる気は二度と戻らない
…なんてことはない。
不意に戻るのがやる気というものの不思議で。
必ずしも鮮度だけではないのがやる気。

やる気って己の力っていうか、
実はタイミングなのではないか。

ずっと置いていた本でも、
不意に思い立って読み出して、
最後まで読み終えることもあるし。

あっ
でも高校の世界史の先生に薦められた
『食べる人類史』はそういえば読んでいない。
先生ごめん。
またタイミングじゃないみたいだ。

しかし少しでも手をつけたら、
一口かじりついたら、
どこからかやる気が出てくるのも事実。

己の力の中でも、
ひとかじりするだけのやる気。
きっかけを生み出すだけのやる気。
そんなものだろうか。

いや、
そもそもやる気と表現していいのか。
活字ってやる気が必要なのか。

ただ単に、
「ちょっと読んでみる」ってだけ。
これはつまり…
行動するかどうか…?

買った本をちょっと読んでみるかどうか。
しかしそんなの私の気まぐれ。
気分が乗るかどうか。

つまりはなんだ、
活字の気分になる頻度ってことか。

積ん読するのは活字ばかりだ。
漫画は買ってすぐ、帰ってすぐ読んでしまって、
本棚に整列しているのだから。

漫画はいつでも食べられて吸収できる。
活字はどうもそうはいかないようで、
時々噛みきれない消化不良。

気分の乗ったときは消化器官の調子が良い。
だから活字も吸収できるのだ。
消化器官の調子次第。

つまり、つまりは…

結論を出す気なんて1ミクロンもないのに、
つまりなんて言い出すから
なにか結論を出したくなるのだ。
これは良くない癖。

積ん読に罪悪感の欠片もない。
そういうものなので。

だからこれからも積ん読をするし、
どきどきそれを消化する。

猫田による猫田のための、積ん読。

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