古代美術商としてのクレッセントハウス 〜西洋古美術の魅力〜 <前編>
祖父の話というのは、西洋美術や中近東古美術等に興味のある方であれば、なかなか興味深い内容ですが、そういったお話がわからなくても、方々国々を駆け巡り、夢に向かって自分の道を生きた人として、多彩な経験の引き出しから話をするので、自分らしさを生き方の軸としていく考え方が増えている今の時代の人が見ても色あせない内容も多いと感じていました。
また、クレッセントハウスの完成を見ずして亡くなった祖母ですが、美術品のコレクションは、その後も「石黒夫妻コレクション」とよばれ、常に寄り添い続けていました。
こちらでは、古美術商としての三日月が発行した小冊子内の文章をご紹介いたします。昔のお話しではありますが、現代との接点を見つけていただきながらお読みいただけますと幸いです。
東京の芝、増上寺正門前に、クレッセントハウスと名付けられた、いかにも英国の王候貴族の住みそうな5階建の煉瓦作りの建物がある。これが美術商・石黒孝次郎氏の城である。
2・3階は高級レストラン。4階は西洋骨董の店、ギャラリー三日月。そして、5階は石黒氏のプライベートコレクションルームである。
ここには石黒夫妻が30有余年に亘利、心血をそそいで蒐集した中近東、地中海域その他の古代美術工芸品が、地域、時代別に区分され、整然と陳列されている。
<クレッセントハウス4階西洋古美術三日月発行小冊子・石黒夫妻コレクション〜Mr. & Mrs.Ishiguro Collection〜より>
Q「石黒さんが、西洋の古美術に興味を持ち始められたのはいつ頃で、どの様な動機からですか?」
石黒「私は大学を出てから三井物産に入り、1年後に戦争に行き、6年半ばかり軍隊生活をしたのですが、南方で1年捕虜になっている間に、財閥解体で勤務先の三井物産がなくなってしまうという話で、それでは自分で何か仕事をしなければならない。仕事をするなら好きな仕事でなければ続かないと思いまして、古美術商になろうと思いました。
古美術商と言っても、日本のもの、中国のものを扱う古美術商は、古くから非常にたくさんあるので、なるべく人のやらない分野のものをやってみようと思って、外国のものをはじめたわけです。ですから、昭和21年頃からやっております。その頃はまだ正式な輸入が出来ませんから、方々の骨董屋さんを歩いて、ドイツのマイセンの焼物だとか、古渡のオランダ皿などを探してみたり、イギリスのスリップウェアーなんかを扱ってみたり、英国の銀食器やグラスを扱ってみたり、ということを散々やりました。ですからそういうものにも非常に愛着は有るし、そう言ったものから、だんだん、中世のゴシックの石造彫刻とか、ロマネスクの彫刻の断片という様なものが好きになって、それが次第に紀元前何世紀という古いところに惹かれていく様になったわけです。」
Q「西洋骨董といっても非常に広い分野ですが、西洋骨董の楽しみ方と、その魅力について教えてください。」
石黒「私は西洋骨董という言葉自身にちょっと抵抗が有るんです。私自身は、骨董屋よりも古代美術商でありたいと思っているわけなので、もちろん骨董という言葉の中には、一種のいわゆるデコラティブアートとか、使って楽しむという様な意味も有るんじゃないかと思うので、それはそれ自体楽しいことだし、これらを集めることには大いに意味があると思いますが、それとば別に純粋な芸術的観賞とか、そのもの自体の歴史的な背景だとか、文化の交流という面から見た面白さというものですね。
その他、学究的な面白さという様なものもあるので、コレクターの方が、どういう様なつもりでお集めになるか、あるいは最初は使うものを集めていて、そのうちにだんだん学究的な面白さが加わっていく、そういうような方向もあると思います。」
Q「日本人の感覚の中で、非常にとっつきやすいというか、親しみを持って理解できる美しさを持つのは、どこの古代文明の遺産ですか?」
石黒「日本人にとって共感が持てるものと、体質的にどうしてもなじみ得ないものがあると思います。
例えば、ギリシャであるならば、ギリシャが本格的にギリシャになり始めた頃のもの、例えば壺で言えば、初期ギリシャ(B.C.1400~1200)のミケナエ彩文土器から幾何学模様時代というものがあって、その次に、コリント様式だとか黒絵式の時代というものがあり、最後に赤絵式の時代になるわけですが、その赤絵式の様な、本格的なギリシャになってしまうと、日本人にはちょっと共感が持ちにくいんですね。ですから例えばメトロポリタンの美術館で100万ドルのギリシャ赤絵式の壺を購入したんですが、そのカラー写真を見ても、なぜこれが100万ドルでも買わなければならないのかということは、日本人にはちょっと理解できない。もうそれはヨーロッパの世界になってしまってその辺りから、東洋と西洋というものがはっきり分かれている様に思うんですね。
(ミケナエスティラップジャー / ギリシア/伝クレタ島出土/B.C.1400~1200。把手が鎧形をしていて、ミケナエ土器独自の形態を持つ注口器。ミケナエ様式の彩文どきはB.C.1500年頃の後期ミノアン時代から、自然物の抽象化、図案化された文様を器面の飾りとして描くことが多く、特に海洋に関連した、蛸、蛸船、海草、巻貝等を組み合わせて彩文するのを常としている。時代的に古い物ほど写実に近く、例えば蛸の足の吸盤を丹念に描いたりしているが、図版の作品はこの写実性が薄れて図案化の傾向が強くなった時代、B.C.1400以降の物であると考えられる。 ※以下、ミケナエ・キプロス・赤絵式のそれぞれの違いの写真です。資料は、 中近東文化センター出版「古く美しきもの 」より)
(ミケナエ女人土偶/ ギリシアB.C.1400~1200)
ですから、東洋と西洋がわかれる前の時代のもの、つまり初期ギリシャのものは、日本人にも非常に共感が持てるもので、時代的に言えば、B.C.500〜600よりも前のものということになると思います。つまりヨーロッパともアジアともわかれない、人類共通の文明の黎明期のものは文句なしに受け入れられますし、又、シルク・ロードの交流とか、中国とイランとかの交渉とか、直接日本人の文化に関連のある分野のものは、別のおもしろさがあると思います。
けれどもヨーロッパのもの、地中海のものということになると、さっきお話したようなことだと思うんですね。ですから、それから後、ビザンチンのものだとか、中世のヨーロッパのもの、それからルネッサンスのものでも、17〜18世期のものでも、日本人には、なかなか本当の共感というものは持ちにくいものが多い様です。
けれども、例えばるい王朝風の家具のリプロダクションを飾り立てて楽しもうというようなお金持ちが日本にいるとすれば、その方は、骨董や古美術の愛好家ではなくて、いわゆる日本流のデラックスなインテリアが好きという事になると思います。一般的にはまだ日本人の感覚として純粋な17〜18世紀、ヨーロッパのものには、共感しえないと私は思います。それはヨーロッパが日本の茶道具だの、国焼物がわからないのと似たような事です。だから私は、その時代のヨーロッパのもので日本人が好きになれるのは、民芸品とか、英国のスリップウェアー、オランダのデルフト、スペインの陶器だとかマジョリカなんていうものでしょうが、例えばマジョリカでも、田舎のマジョリカは、一般的には日本人にはわかりにくいところがあるわけです。
しかし私は、日本人の美に対する感覚の水準は非常に高いと思っています。さっきお話ししたギリシャのものを例にとってみても、外国ではB.C.600年頃からのものが一般的に高く評価され、価格も高いわけですが、我々は、それ以前のものの方が好きで、向こうではまだそんなに高くないものの方が美しいと思われるし、又、価値のあるものだと思われるのです。
Q「これらの美術品の価格については、ある程度の相場みたいなものがあるのでしょうか。」
石黒「それはちゃんとあります。例えば日本では全然売れないけれども、ロンドンなりニューヨークなり、パリなりのオークションにかければ、ちゃんと立派な値段がつくわけで、このコレクションの中では、ただ同然で買ったものもありますし、5万ドル、10万ドルしたものもあります。
今あそこにかかっているのはアッシリアなんですけれども、あれは、20年くらい前にパリの有名な商人のところで偶然手に入れたんですけれども、日本へ持ってきましたら、大学の先生が中近東の展覧会へ出してくれと言われ出しましたら、真偽の点で、いいとか、悪いとかいう方々がいまして、おかしいと思われるなら出しませんと言って戻してしまったりしたことがあるものです。
この断片はアッシリアのニムロードの遺跡のもので、この遺跡は19世紀末にイギリスのレアード卿が発掘した有名な遺跡で、今、大英博物館のコレクションとしてアッシリアルームというものが出来ていますが、そのレアード卿が発掘した断片を友達だとか、親戚だとかに、おみやげにあげたわけですね。それで、それらの破片の図録を大英博物館が6年前に出したわけです。
この図録に、行方不明ということでこの作品が載っていました。それが大英博物館の図録に出たらば、みんな石黒さんのところのあれ、ぜひ見せてください。などと言われて、妙な気持ちがしたものです。ですから物というのは、自分で勉強しておいて心に打たれるものを買わなければだめです。
心に打たれるものというのは、何も資料的に重要だとかなんとかいうものでなくても、使って非常に楽しいだろうとか、それをかけたら、私の家のあそこの壁は非常に綺麗になるだろうと思いながら買わなければ意味がないということです。そして、こう言ったものは、一生勉強で考古学を学生の頃にやったとか、美術史を勉強したと言っても、それは鑑認眼とは何ら関係ないもので、やはり、数多くの品を見ること、そして買うことですね。
Q[では、これから厖大な石黒コレクションを見せていただき、個々の品についてご説明いただきたいと思います。
石黒「このケースのそこからそこまでは、8世紀から13世紀くらいまでのペルシャの陶器です。それで、この中にはいわゆるシルクロードと言われているサマルカンドとか、南ロシアなんかの陶器もあるわけです。こういった古いもののコレクションをされる方の一番最初の足掛かりというものは、こういうイスラム陶器なんかから入っていかれてもいい。
特にこれなんか、中国の唐三彩とそっくりですね。私は、唐三彩の三彩というアイディアは、大体中近東からのアイディアだと思っています。メソポタミアの古いアッシリアの釉薬煉瓦というか、色分けをした煉瓦がありますけれども、そう言ったもののアイディアが古代イランとか、メソポタミアからはじまって、それがローマあたりでもって・・・
これが、ローマの三彩なんですが、こういったローマの三彩風なものが、パルチャ朝を経過して今あそこにあるササン朝ペルシャの6〜7世紀だと私は思っておりますが、そう言ったようなものになって、これが中国の唐三彩に影響して、素晴らしい中国三彩が出来、それが再びペルシャにもう一回戻ってきて、ペルシャのニシャプールで出来る三彩になって、そのニシャプールの三彩がビザンチンの三彩、
・・・これらがそうですが・・・
ビザンチンの三彩になって、そのビザンチンの三彩からマジョリカが生まれてくると思っております。
だからこのイスラム陶器というものの集め方は、いろんな地方の窯が有馬sから、窯によっての種類を集めるという集め方もあるし、又、中国との繋がりを考えながら集めるというような集め方もあるわけです。
例えばこう言った白いもの。
こんなようなものは、宗の焼物に影響されていると思われますし、それからこういうものは、明初とか、元とかいうものに関係がありますね。
それから、これは高麗青磁と非常に関係があります。16世紀のシャーアッバスの頃に高麗青磁の影響がイラン陶器に見られるのは面白いことです。
大体赤絵というものは、中国よりもペルシャの方が古いわけです。赤い絵を焼物の上に焼き付けるという技術は、中国では、宗あたりからはじまっています。
Q「陶芸技術が、中国の方へ輸入されたという事実は歴史的に実証されているんですか?」
石黒「歴史的にはまだ解明されていないんじゃな意でしょうか。(1967年頃のお話しです)ただ私は、中国の漢の緑釉というものは、ローマの緑釉の影響下に出来たものだと思います。
これが、ローマの緑釉陶器ですが、中国では漢になって急に緑釉が始まるわけで、このことは中国自体としては解釈できないわけですよね。ですからこれは、どうしてもローマの影響で釉薬のつけ方などの技術的な輸入が行われていると思うんです。大体、この間の東博でもやり、ロンドンやパリでもやりましたけれども、文革以後の中国の展覧会ですね。あれなんかを見て、今度出たコレクションの中の一番面白い部分は何かというと、中国とローマとの関係を持ったものというのが一番面白いわけなんです。
陶器なんかでも、今までの殷(B.C.1700^1000年頃)、周(B C.1100〜700年)の銅器じゃなくて、漢の銅器というものが非常に面白かったわけで見直されました。それは何が面白いかというと、西と東とが文化が交流しているという面で非常に面白いわけですね。ですから漢の時代に、向こうと相当な行き来が当然あって、それでこう言ったものもできているんだろうと思います。
Q「ヨーロッパでは、中国陶器を日本が評価している程度には、認めているんですか」
石黒「それはもう日本以上に認めているでしょう。ですから、近頃、我々の仲間やなんかが、ロンドンでもって元の壺をものすごい価で買いましたけれども、そう言ったものが出るということ自体が、ヨーロッパのコレクターが、昔からそういったものを認めて持っていた、ということです。」
・・・以上、後編に続きます。